「チリ・カマラOB会の話」

 

チリは、一度でも駐在するとほとんどの人が好きになって帰国するという不思議な国である。親切で、ホスピタリテイ精神やボランテイア精神にあふれた国民である。加えて、気候(Weather)、ワイン(Wine)、女性(Women)の3拍子そろった3Wの国である。

チリから帰国後、水野浩二氏(チリ三菱元社長、元日智商工会議所会頭)や何人かと相談して、「チリ・カマラOB会」という組織を立ち上げた。カマラは会議所と言う意味もある。会長は、水野氏で私は事務局長で雑務を引き受けた。年に2回程度、チリの日智商工会議所の会員企業の駐在員で帰国した人をメンバーが集まるというものである。ユニークな点がいくつかある。まず、男性だけではなく、夫人同伴も可である。毎回、夫人同伴組も多かった。2番目は、在京のチリ大使及び大使館員も参加することである。毎回,5~6名の大使館員が参加した。参加者は通常、4、000円の会費を支払うのだが、大使館員は会費無料の代わりに、チリワインを1.5ダースから2ダースを寄贈することになっていた。毎回、多い時は、60名、少ない時でも40名が参加した。場所は、赤坂のジェトロ会館の2階会議室を使用させてもらった。日本大使館関係者も小村大使始め、公使、書記官等も出席した。チリの思い出で毎回大いに盛り上がった。20年近く続いたが、水野会長が亡くなられたり、私が大阪に行くこと等が重なり自然消滅した。

 

「『日本チリ交流史』に取り上げられた話」

 

日本チリ修好条約が1897年に締結された。修好100周年を記念して、1997年8月、「日本チリ交流史」が発行された。その時期、私はミラノに駐在していたが、その中で、私のことが取り上げられた。以下、紹介する。

「1980年代前半、ジェトロの事業は従来の輸出振興から輸入促進へと180度転回した。サンテイアゴ事務所においても1985年から1989年にかけて駐在した7代目駐在員の時代に「輸入促進のジェトロ」が根付くことになる。同駐在員は発展し始めていた鮭・鱒の養殖業に目を付け、日本で開催された鮭・鱒フォーラムにチリ代表を派遣するなど、チリの鮭・鱒の対日輸出促進に取り組んだ。また同駐在員は積極的にチリ財界の若手リーダーとの交流を図った。現在のチリ財界有力者の一人であるロベルト-ファントウーシ製造業輸出業者協会(ASEXMA)会長は同駐在員の良き友人である。同駐在員はロベルト・ファントウシ―氏を市場調査員として日本に招へいしたほか、その後、同氏が製造業輸出業者協会を設立する際にも協力し、設立後には同協会の顧問に就任した。同駐在員は帰国後、チリ滞在中の貢献が認められ、チリ政府から叙勲された。」

「バスでバリローチェに家族旅行した話」

 

チリでの最初の家族旅行は、アンデス越えでアルゼンチンのバリローチェに行くバス・ツアーだった。2005年のことであった。サンテイアゴを出発し、南部第10州のプエルトモンに行き、美しい湖を見ながら、アンデスを越え、南米のスイスと言われる風光明媚なバリローチェに到着するという大旅行である。長男が小学6年生、次男が1年生、3男が幼稚園児だったので、家内を含め5名のバス旅行はやや無謀の感があったが、チャレンジすることにした。チリ南部の湖沼地帯、壮大なアンデス、バリローチェの美しさに印象を受けたが、一番面白かったのは、参加したチリ人のほとんどすべてがsimpático(愛想のよい、親切な)な人ばかりで道中、和気あいあいの雰囲気であった。当然、お互いに連絡先を交換することになった。サンテイアゴに戻った後、誰ともなく同窓会をやろうということになった。1回目は、参加者のチリ人の家で行った。2回目は、サンテイアゴ中心部の中華料理屋で開催した。皆、それぞれ職業を持っており、バリローチェ旅行の思い出を語り合ったりした。外国人は唯一我々だけであったが、チリ人の心の広さには感銘を受けたものであった。

 

「アウグスト・ピノチェット大統領に会った話」

 

チリ駐在時代の大統領はアウグスト・ピノチェット氏であった。チリは選挙によって共産党政権を樹立させた史上初めての国である。1970年にサルバドール・アジェンデ氏が社会主義政権を成立させた。しかし、経済政策等がうまくいかず、1973年には、アウグスト・ピノチェット陸軍大将の軍事クーデターにより、自殺に追い込まれた。その後、共産主義者やアジェンデ大統領の協力者への厳しい弾圧が行われ、世界の世論の非難にさらされた。悪名高き大統領として評価される一方、経済分野においては、エルナン・ビッヒ蔵相などのテクノクラートに任せ、シカゴ派の自由主義的政策で見事な経済運営を行った。その結果、現在のチリは安定的経済成長を達成し、チリは南米諸国に中で一人あたりのGDPはナンバー1である。(2013年、15,776ドル)

駐在中に、ピノチェット大統領とは5回、会う機会があった。サンテイアゴ国際見本市の日本館の案内で、4回、サンテイアゴ在住の外国系企業の代表100名に選ばれ,モネダ宮殿で挨拶した時である。それ以外に、ロータリークラブが毎年大統領を招待するので、彼のスピーチを数回聞くことができた。サンテイアゴ国際見本市の日本館訪問は毎年恒例の行事で、10分くらい日本大使ともども日本館を案内するのである。当然ながら、日本館を熟知している私が説明することになる。今から思いだすと大統領が関心を示したのはロボットのおもちゃ、一村一品の展示であった。チリの地域開発と関連して興味を示したものと思われる。ピノチェット大統領は軍服の時もあり背広の時もあったが、常にカリスマ的な雰囲気をただよわせていた。

 

「全国講演行脚」

 

人脈を開拓するには、1人1人直接に面談し、名刺を集めフォローするという方法がある。これは堅実であるが、効率的ではない。そこで,何とかもっと効率的な方法は無いのかと考えた。80年代半ばから後半のチリは、環太平洋諸国やアジアに対する関心が高く、日本への輸出や日本企業の対チリ投資に関心のある企業も多かった。チリ貿易振興局(PROCHILE)、チリ中小企業事業団(SERCOTEC)、チリ中小企業連盟(CONUPIA)等から日本市場攻略の秘訣的なテーマでの講演の要請があった。私は、外部の依頼があれば、原則断らないことをモットーとしていたので、すべて引き受けた。とりわけ、PROCHILEとSERCOTEC主催の「チリ輸出振興セミナー」は、チリ人企業家の輸出マインドを高めるもので、幸運にも私に結構依頼が来た。航空賃やホテル代も相手側持ちで、予算の足りないジェトロ・サンテイアゴ事務所としてはありがたいことであった。チリは最北の第1州から最南端の第12州までの合計12州と首都圏があるが、1986年から87年にかけて第2州、第5州、第6州、第7州、第8州、第10州、第12州と7州でのセミナーに参加することができた。訓練と言うものは恐ろしいもので徐々にプレゼンテーションがうまくなった。うまくなると外部からいろいろお声がかかることになる。特に、87年11月にシェラトン・ホテルで開催されたPROCHILE(チリ貿易発展局)とコンセプシオン銀行共催の「輸出振興セミナー」にメイン・スピーカーとして招かれた。このセミナーには、チリ経団連会長のマヌエル・フェリウ氏、チリ鉱業連盟会長のバレンスエラ会長、外務省国際経済総局長のギジェルモ・ルネケ氏ら錚々たる有力者が出席したほか、国営テレビ、カトリック大学テレビ、チリ大学テレビ等すべてのテレビ局が取材し、その夜のニュースに放映された。

このような全国行脚のおかげで、南北4、000キロメートルのチリの全12州を駆け巡ることができた。

 

「チリ全土の大学での講義」

 

少しずつセミナーでのスピーチがスムーズになってきたこともあり、チリ全土にある大学へのアプローチを開始した。全国の大学の経済・経営学部長にレターを送った。その内容は、各大学を訪問して、講義したいということであったが、下記の条件を付けた。テーマは、「日本へ売り込むには」、「日本の輸出振興策」、「日本の中小企業振興策」、「日本式経営の特徴」、「日本の品質管理」の5つとし、その中から大学が選ぶ、航空賃か1泊のホテル代のどちらかを大学で負担するというものであった。どのくらいの大学が乗って来るか心配であったが、ふたを開けてみると、全国の13大学からのべⅠ6回の講義の要請があった。チリの学生は学習意欲と好奇心にあふれており、各大学では、質問攻めにあった。このプログラムに対し、東京本部より3、000ドルの支援を受けた。チリは、航空賃が高いので、各大学は滞在費を負担してくれた。