チリのサンテイアゴ駐在から帰国した1989年6月から1993年3月までセビリャ万国博覧会日本館運営の責任者として勤務した。以下は、その時の思い出である。

「オープニング・ディとジャパン・デーのセレモニー」

日本館のオープニング・セレモニーは、1992年4月20日の万博のオープニングに合わせて開催された。当日は、雲一点もない晴天で気温も極めて高い午後だった。日本からは、盛田昭夫政府代表、通産省沓掛政務次官、ジェトロ増田実理事長、山口大使、堺屋総合プロデユーサー以下全プロデユーサー、スペイン側からもアランサデイ工業エネルギー大臣の出席のもと盛大に開催された。セレモニーでのスピーチの数が多く、かつ逐語通訳であったこともあり、式典が長引き、炎天下で気分の悪くなった人が、数名出た。本部は直前まで、当日の天候を気にしていた。雨が降った場合、場所をどこに移して行うかということである。博覧会公社に問い合わせたところ、4月20日は過去何十年の間、一度も雨が降ったことはないので全く心配いらないと言う。それでも本部は心配そうであった。結果は全く杞憂に終わった。開会式前日には、前夜祭を行い、お世話になった企業・団体に対し、感謝状を手交した。

ジャパン・デーのセレモニーには、日本から皇太子殿下、盛田日本政府代表、通商産業省棚橋事務次官、ジェトロ理事長の参列の下、7月20日に華やか行われた。皇太子殿下の挨拶、アランサデイ大臣、カシネージョ博覧会政府代表の挨拶が行われ、その後、歌舞伎の踊り、その他パーフォーマンスを披露した。その日の夜は、近くのホテルでジャパン・デーのレセプションを行った。この時には、特に招待してはいなかったが、盛田政府代表に会うために、エストニアの大統領と世界的に有名な音楽家・指揮者であるロストロービッチ氏が突然パーテイ会場に来られたのは喜ぶべきサプライズであった。7月20日はジャパン・デーであったが、その前日の19日は「愛知デー」、その翌日の21日は「東京デー」として、3日間日本館は大々的な催事が挙行された。ジャパンで-以外の19日と21日の催事は他の国のナショナルデー行事と重なることもあり、極力控えめにして欲しいという要望が博覧会公社から出されたことも思い出である。ジャパンデ-には、坂本龍一、オルケスタ・デ・ラルス、森山良子が出演し、会場のパレンケ会場は満員の盛況であった。

「Give & Take」

1992年はスペインのセビリャ市で万国博覧会が開催された。コロンブスのアメリカ大陸到達500周年を記念したものであるが、私は担当課長として、日本館の建設・運営にほぼ3年半従事した。博覧会の業務を遂行する上で最も大切なことは、博覧会公社の人々といかにうまくコミュニケーションを保つかということである。そのために、セビリャ訪問時には、小さな日本製のお土産を持参したり、特に用事がなくても頻繁に公社を訪れ、意見交換を行った。自分で購入したお土産はたぶん6~7万円に達したと思う。日本館は常に他国館に先駆けて準備が進んでいることもあり、彼等も日本館の動きに注目し、頼りにしていた。当方からGiveすることも多かったが、Takeしたことも多かった。例えば、優先的に情報をもらったり、列に並ばず案件を処理してもらったり、オペラやコンサートや闘牛のチケットの入手に便宜を図ってもらったりすることが多々あった。記憶に残る思い出は、1991年に行われた「レアル・マエストランサ劇場」のこけら落としコンサートの「Gala Lírica」のチケットをプレゼントしてもらったことである。プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス、アルフレド・クラウス、モンセラ・カバリェ、テレサ・ベルガンサ等スペインの誇るオペラ歌手が総出演したコンサートであった。ソフィア王妃も臨席していた。公社からの一連の好意によって、日本館の従業員は忘れられない思い出をつくることができた。常にGiveしておれば、いつの日か期待していない時にTakeできるというのが私の信条である。

「忍者あらわる」

日本館の建設は、1990年末から始まったのだが、幅60メートル、奥行き40メートル、高さ25メートルと世界最大級の木造建築とアピールしていた。日本館の建築の特徴の1つは、升組という井桁(#)に組んだ材木を少しずつ大きくしながら重ねる技法を使ったことであった。(この升組が上海万博の中国館に使われていたため、盗作といううわさも出た)竹中工務店に建設を依頼したのだが、その技法に習熟した下請け企業からとび職10名くらいがセビリャにやってきた。彼等は、全く慣れたもので命綱などつけずに高いところでスイスイと仕事を行う。工事の進捗が毎日明確にわかり、建設に従事していた私としては、誇りに思う毎日であった。スペインの新聞も彼らの仕事ぶりを見て、「日本から忍者現わる」と大々的に報じてくれた。ところが博覧会公社から呼び出しがかかり、命綱をつけずに高所で働くことはEUのルール違反だという。すぐに命綱をつけさせるようにと指示された。早速、竹中工務店にその旨伝え、命綱をつけるように依頼したが、とび職の人々は、「命綱などつけるとかえって、落っこちる」と口をそろえて言う。数日で作業が終了し、すぐに帰国するので、このまま静かに仕事をさせて欲しいということであった。数日後すべての作業を終了し、まさに忍者のごとく日本に帰国していった。とび職の服装も注目を集めた。とりわけ地下足袋は人気絶頂で、スペイン人の新聞記者は、地下足袋を大いに欲しがったものであった。地下足袋を履けば、忍者のごとく動けると思ったに違いない。

「セマーナ・サンタ、ロシオ、四月祭り」

セビリャ万国博覧会は1992年4月20日に開幕した。その直前に、セビリャの誇る「聖週間」(Semana Santa)とロシオ巡礼(Rocio)のシーズンを迎えた。万博というスペインにとって世紀のイベントを実施するのだから、博覧会公社の役職員も休まないで、参加国の懸案事項を少しでも解決してくれるのだろうと甘く考えていた。ところが、この期間、公社の事務所はすべて完全に閉まり、職員全員が「聖週間」を大いに楽しむのである。がっかりしたが、腹を立てても仕方がない。日本館も休める人は休み、「聖週間」のイベントに出かけた。日頃の人脈が効を奏して、セビリャ市長の招待状が届き、ジェトロ・マドリードのブランコ職員(数年前に死亡)と一緒に出かけた。特別席で、人力によるマリア像やキリスト像の山車の行進をはじめとする荘厳な儀式を見ることができた。我々の後ろには、スペインの有名な女優であるイサベル・パントーハが座っていたのも良い思い出である。開会直後には、セビリャの春祭り(4月祭り、Feria de Abril)が続いた。この時期は、ブラジルのカーニバルのようにセビリャ中が浮き浮きする。祭りが始まると、セビリャの住民は、着飾って4月祭りの会場に行く。会場には、カセタと呼ばれるテントで埋め尽くされる。それぞれのカセタで踊ったり歌ったり飲んだり食べたりする。招待券・招待状がないとカセタに入れないシステムになっている。幸い、日頃の人脈形成努力が功を奏し、2か所からの招待状をもらっていたので、仕事をしばし忘れて、日本館の事務局員を連れて祭りを楽しんだ。

「日本館バスクに乗っ取られる」

日本館建設の真っただ中の話である。ある日突然、博覧会公社の出展部長のVicente GONZALEZ氏(現BIE,国際博覧会事務局事務総長)に呼びだされた。公社の窓から日本館を見ろという。見てみると日本館の頂上に見慣れない旗がはためいている。あれは、バスク共和国の旗だという。当時、バスクのETA(バスク祖国と自由)によるテロが盛んな時期であり、直前にも博覧会公社にETAから送られてきた手紙爆弾が爆発し、死傷者が出た事件があった。建物は引き渡されるまでは、建築受注者の保有になっているというものの何とかして欲しいというのが、GONZALEZ氏の意向である。当方は、その時に指摘されるまでは、まさか他国の国旗が日本館にはためいているとは夢にも思わなかったのだが、早速施工会社の竹中工務店に来てもらい、あの旗をすぐに降ろしてもらいたいと伝えた。竹中工務店もバスク旗のことを知らなかったのだが、調べてみると、竹中の下請けの下請けがバスクの企業であり、会場で一番注目を浴びている日本館の頂上にバスク国旗を掲揚し、バスク魂を見せつける魂胆だったという。旗は降ろされ、関係者全員ホットした。

「2つの日本館ストライキ事件」

セビリャ万博では、会期前と会期中に2度に渡ってストライキに見舞われた。最初は日本館建設中のことであり、受注先の竹中工務店の下請けの下請けが労働者に賃金を払わなかったため、労働者がストを打ったものである。竹中工務店の話によると下請けには予定通り支払っているという。したがって、下請けがその下請けに支払わなかったか、下請けの下請けが支払わなかったのかどちらかである。竹中工務店は、心配して相談に来たが、日本館は常に工程管理表にしたがって、着々と準備を進めていたので、竹中には少しぐらい遅延しても構わないと伝えた。ストは数日で終了した。

もう一つのストは、会期中、日本館の三越の売店部のストであった。ある日突然、日本館の前で売店の従業員が三越や日本館を非難するシュープレヒコールを派手にやりだした。何が何だか分からず、三越の責任者に問い合わせてみると、給料もその他の条件も他の館より勝っており、彼等もどうしていいのかわからないという。早速、三越の関係者と博覧会公社の労働部に赴き、事情を説明し,公社の労務担当に理解を求めた。三越からは事務局にどうすればいいかにつき相談があったが、日本館や三越の手落ち等一切ないので、何もせずほおっておくことにした。セビリャの夏は、時には50度近くに上昇することがあり、ストライキする方も炎天下の中で大変なのですぐに止めるだろうと考えたからである。案の定、ストライキは1日で終了し、翌日から正常化した。