「各国大使館の文化広報活動」

 

メキシコ駐在時に関心を持ったテーマがあった。各国大使館がどのような文化広報活動を行っているかということである。日本は伝統的に、情報発信は得意ではない。そこで外国大使館の文化広報活動の実態を調べ、日本の情報発信の参考にしたいと考えた。調査対象とした大使館は、米国、英国、フランス、イタリア、ドイツ、スペイン、スウエーデン、日本の8カ国であった。PRコンサルタントのウイットフェルト氏と分担して各大使館を訪問し、文化担当参事官クラスと面談した。取材して判明したことがいくつかあった。まず第1の点は、ほとんどの国の文化・広報・科学担当官は、専門家であるということである。日本の場合、特に文化広報の専門家が文化担当官になっているわけではなく、たまたま外務省の職員が文化担当に任命されたというケースがほとんどである。しかも文化担当は必ずしも大使館の中で重要視されているとは限らない。しかし、英国は、British Councilの人材, イタリアは、ローマ大学の教授というように文化広報のプロが責任者なのである。したがって、メキシコの大学や学校等から招かれると気楽に出かけ講演・講義・プレゼンができる体制にある。第2の点は、各国ともに語学の普及を重要な施策にしていることである。アメリカ文化センター、ブリテイッシュ・カウンシル、アテネ・フランセー、ゲーテ・インステイチュート、ダンテ・インステイチュ―トを通じて積極的に語学の普及を図っていた。第3は、書籍、映画、ビデオ等広報素材を膨大に保有していた。以上の点から、日本政府も文化担当官には、役所にこだわらず、文化普及のプロを派遣すること、日本語の普及にもっと力を入れること、広報費を増額し、広報資材の充実を図り、広報プログラムの拡充を図ることが必要ということになる。とりわけ、日本語の普及については、日本政府はもっと力を入れて取り組むべきと強く感じた。

 

「日墨学園の建設」

 

1974年から77年まで3年3ヶ月ジェトロ・メキシコに駐在したが、最大の思い出は、日墨学院の建設に従事することができたことである。メキシコでは、駐在員子弟のための日本人学校とコロニア関係の2つの学校という3つの日本語による学校があったが、一つの立派な学校を建設しようということになった。折しも、田中角栄総理がタイミング良くカナダ、メキシコ、ブラジルの3カ国を公式訪問されることになった。ブラジルではセラード・プロジェクト、カナダでも具体的なエネルギー・プロジェクトがあったが、幸か不幸かメキシコには具体的プロジェクトがなかった。そこで当時日墨学院建設委員長であったジェトロ・メキシコの中屋敷正人所長が2度に渡り一時帰国し、このプロジェクトへの日本政府の支援を熱心に要請した。結果的には、日本政府が100万ドル(3億円)を寄贈することになった。加えて進出日本企業が150万ドル、日系コロニアが50万ドルを拠出し、合計300万ドルという大プロジェクトになった。建設委員長の中屋敷所長の指示に従い、私もそのアシスタントとして、打ち合わせ会議の組織、弁当の手配、寄付割り当て金額の配分表の作成、参考となるドイツ学校の調査等を行った。当時、日墨学園をどのような形態にするかについては、2つの考えがあった。1つは、コレヒオ・アレマン(ドイツ学校)のようにドイツ人、メキシコ人を一緒にして、ドイツ語とスペイン語で教育するという方式である。私もコレヒオ・アレマンの校長先生に取材したが、非常に厳しい教育をしており、成績が悪い生徒は容赦なく落第させていた。コレヒオの卒業生は極めて優秀でメキシコの政財界でも広く活躍していた。もう一つは、フランス学校方式で、フランス人コースとメキシコ人コースを並列させる方法である。どちらの方法を採用すべきかについて、駐在員や日系コロニアの中で喧々諤々の議論があった。中屋敷委員長などはドイツ方式が良いと考えられたが、日本人には、とても受け入れられないということでフランス方式が採用となった。大使館、進出企業、コロニア関係者が集まる会議は何度もジェトロ事務所で開かれ、時には午前2時頃まで続くことがあり、みんな真剣で熱気に満ちていた。帰国直前の1977年には、エチェベリア大統領以下、ブラボ・アウハ教育大臣、主要閣僚、主要大学学長を迎えて開校式が華やかに行われた。永年の懸案の学校がついに実現することになり感無量であった。この学校の完成までには、多くの人々が関係したが、中屋敷所長は、間違いなく最大の功労者の1人と言えよう。2008年初めに私も初めて日墨学院を訪問する機会があったが、当時を懐かしく思い出した。毎日新聞社が日墨学園の10周年を記念して、1987年に「日本メキシコ学院十年の歩み」を発行した。その中で、中屋敷所長は、「当時ジェトロ職員であった桜井悌司君(現チリ所長)には私のアシスタントとして深夜まで熱心に下働きをしていただいた」と書いている。

 

「ハイチと貧困」

 

メキシコ駐在中にハイチを出張する機会があった。現在でも、世界の最貧国の1つでありる。中南米の独立運動は、19世紀の初めから半ばにかけて起こるが、不思議なことに中南米の最初の独立国家はハイチなのである。独立は1804年に達成された。他の中南米の国々が1810年以降に、徐々に独立したことを考えると、ハイチの先進性が理解できる。南米独立の英雄であるシモン・ボリバル関連の本を読むと彼は、何度もハイチに独立の援助を求めたりしていることがわかる。

ホテルにチェックインし、1人で街を散歩しようとすると、クレオール語(フランス語)や片言の英語で話しかけてくる。要は「ガイドをさせて欲しい」ということである。それも一人ではなく、5~7名の少年がしつこく追いかけてくるのである。こちらが小走りをすると彼らも小走りで追いかけてくる。振り払うのに大いにエネルギーを費やした。おみやげ店に行くとハイチ人が描く「油絵」や独特のデザインの木彫り等が売られている。私も貧しい人のために少しでも役立てればと「油絵」や木彫りのおみやげを購入した。ハイチ人の描く「油絵」はカラフルで南国色に満ちた何とも言えない魅力のあるものであった。タクシーに乗って、サンスーシ宮殿にも行ってみたが、いつもハイチ人に追いかけられているようで落着けなかったことを覚えている。今から思えば、ホテルを出た時、最初に声をかけてきた少年にガイドを頼めば、ゆっくり市内を見て回れたのにと後悔している。

2010年1月12日にハイチで大地震が発生した。震度7.1で、死者23万人と報じられた。日本のテレビでも、大統領宮殿が崩壊した様子が放映された。首都ポートプランスの空港も閉鎖され着陸できないと言う。2010年2月から3月にかけてJICAの短期専門家としてドミニカ共和国のサント・ドミンゴ市に出張する機会があった。空港に到着すると、世界や日本からの来た多数のハイチ救援隊で込み合っていた。ポートプランス空港が使用できないので、サント・ドミンゴ空港から陸路でハイチに入るという。私の受け入れ先のドミニカ共和国輸出振興センターの展示場に行くと、ドミニカ共和国からハイチに送る救援物資の展示会が行われていた。ハイチとドミニカ共和国は同じエスパニョーラ島にあり、両国とも人口1,000万人を超えるが、ドミニカ共和国の2015年の1人当たりのGDPは、6,732ドルで、ハイチは820ドル(2014年)と9分の1以下に留まっている。滞在中にバナナ園を見学する機会があった。そこで働く労働者はほとんどすべてハイチ人で、農園での昼食時においしそうに食べていたのを思い出す。彼らはお腹一杯食べられた上に給料までもらえるとあって、すべて明るい表情をしていた。貧困とは何かを考えさせられた出張であった。