執筆者:桜井 悌司(NPO法人イスパJP)

 

海外に駐在したからには、人と違うことをしてみたいと考えた。結果的ではあるが、チリのサンテイアゴ、イタリアのミラノ、ブラジルのサンパウロの3都市のロータリークラブに加入した。おそらく、日本の駐在員社会でも、そのような経歴を持つ人は、おそらくごく少数であると思われる。ロータリークラブはアメリカで発足し、全世界規模で活動するクラブである。その目的は、創始者ポール・ハリスの考えに基づいており、「奉仕」と「友情」である。

 

「チリのサンテイアゴのロータリークラブ」

 

ロータリークラブに入会しようと思ったのは、純粋な気持ちで「奉仕」とか「友情」に感銘したからではない。サンテイアゴ駐在以前の駐在地であるメキシコで、あるノルマが達成できなかったからだ。1974年から1977年まで、メキシコに3年4か月駐在したのだが、メキシコ人のアミーゴをたくさん作るために、月に少なくとも8回、メキシコ人と食事をするというノルマを立てたことに始まる。何故8回かというと、ジェトロ・ミラノの所長だった先輩が、月に4回、イタリア人と食事をすることに決め、実行しているということからヒントを得た。先輩は私よりかなり年上だったので、単純にその倍の8回と決めたのだ。学生の身分であれば、学食に行けば、誰か知り合いがいるので、簡単に回数をこなせるが、サラリーマンともなると食事を共にするのはそれほど簡単ではない。見知らぬ人に最初から食事に誘うのは、礼儀に反する。何回か訪問し、気心が通じたところで、おもむろに日本レストランなどに誘うことになる。要は、種まき期間が必要なのだ。結果的には、滞在中の平均食事回数は、7.9回と、ノルマ達成ならずということになった。

 

チリには、1984年12月から1989年5月まで、4年半滞在した。メキシコ時代には6名の駐在員がおり、私は末端所員で、必ずしも伸び伸びと仕事ができた訳ではなかったが、チリのサンテイアゴ事務所は、1人駐在員の小さな事務所で、チリ人スタッフが3名いた。まるで所長兼小使いの感があった。サンテイアゴは、日本から最も遠い駐在事務所でもあり、いくら仕事をしても評価されない代わりに、いくら仕事をしなくても非難されないような存在であった。そこで、今度は、月に12回、チリ人と食事をすることに決めた。8回でも達成できなかったのに、いくら一人事務所で、自由に仕事ができると言っても、月12回のノルマ達成はなかなか難しいと思われた。そこで、何かうまいメカニズムが無いかと考えた。幸いにも、前任の青木忠雄所長がサンテイアゴ南部のロータリークラブの会員で、私にも入会を勧めてくれた。毎週昼に食事を取りながらの例会があるという。まさに願ったりかなったりのチャンスである。しかし、サンテイアゴ南部となると事務所から遠いので、事務所から近くのロータリークラブがあるかを調べてもらったところ、Rotary Club Santiago Centroという会員数300名を超えるサンテイアゴ最大のロータリークラブを見つけた。早速、パドリーノと呼ばれる後見人を探した。伝手をたどると、前駐在員の時代に日本に招待したチリ中小企業連盟の事務局長のDominngo  Bordachar氏にたどり着いた。そのアミーゴである公証人のIvan Santibanez氏にパドリーノになってもらい無事入会を果たした。入会セレモニーもしかるべく行われた。

 

このクラブは、大変由緒あるクラブで、毎週の例会もサンテイアゴのメインストリートであるBernardo O’Higgins大通りに面したClub de la Unionという古くて立派なビルで行われた。会員の中には、後に大統領になったエドワルド・フレイ氏やカトリックテレビ局の看板アナウンサーであるハビエル・ミランダ氏、元駐日大使などがいた。会員には、弁護士、医者、心臓外科の世界的権威、会社経営者等が多数いた。外国人は、大使や公使、多国籍企業の現地法人の社長等がメンバーだった。

 

毎週の定例昼食会は、水曜日に開かれていた。会場に到着すると10名くらいの丸テーブルが多数あり、会員は自由に座っていいことになっている。私は、極力いろいろな会員と知り合うためにテーブルを毎回変えるようにした。おかげで初めての会員との話のつなぎ方等について、徐々にマスターすることができた。このクラブでの思い出をいくつか紹介する。

 

このクラブは、チリで最大、最高のクラブで、年に1回、大統領を招待しての昼食会が行われた。当時は、アウグスト・ピノチェット大統領であったが、いつも原稿なしで堂々と演説していた。大統領は人権抑圧で、国際世論から悪評を得ていたが、国内の経済運営は、テクノクラートのエルナン・ビッヒ蔵相に任せた結果、好調を維持していた。毎年開催される「サンテイアゴ国際見本市」の日本館には、同大統領は必ず訪問され、私が案内役を務めていた。この昼食会には、会員の知り合いを招いても良いということだったので、日頃、情報交換面でお世話になっている大手商社のトップを招待した。

 

もう一つの思い出は、毎年クリスマス等の機会に何回か行われる「夕食会」であった。当時ロータリークラブの会員は、男性に限定されていたが、夕食会には夫婦同伴とあって、華やかな雰囲気であった。夕食会では、必ずビンゴ大会、くじ引き大会、オークションが行われた。景品は、会員、協賛企業から提供される。参加者は喜んでゲームに参加し、適度の酔いも手伝って、お金を供出することを厭わない。パーテイ代の一部、ビンゴ参加費、オークションの収入等は、慈善団体などに寄付する。まさにWIN-WINのファンド・レイジング方法なのである。

 

1988年には、何かスピーチをせよということだったので、私の得意分野である貿易・投資の分野で話すことにし、「チリの輸出振興の課題」というテーマを選んだ。幸いにも好評で、89年1月の全国ロータリークラブの季刊誌に掲載された。

 

「奉仕」の面では、最初は、「コンパニェリスモ」という会員の親睦を図る部会に入り、後半は、「環境部会」に入った。サンテイアゴの大気汚染は深刻で、環境保護のためにパンフレットを作成し、小学校で環境関連の映画を上演した。

 

ロータリークラブのおかげで食事回数が増え、チリ駐在の4年半は、見事12回の食事ノルマは達成でき、多くの友人をつくることができた。

チリのロータリークラブの夕食会風景

「ミラノのロータリークラブ」

第3回目の駐在地は、イタリアのミラノ(1996年~1999年)であった。サンテイアゴでのロータリークラブの経験もあり、ミラノでもロータリークラブに加入しようと考えた。事務所の近くにあり、大きなロータリークラブを探したところ、ミラノ・ロータリークラブが見つかった。このクラブは、ミラノ最大で、300人以上の会員数を抱えていた。サンテイアゴのロータリークラブと比較すると、さすが世界のファッションの中心地であるだけに、入会金や毎月の会費も割高で、やや敷居が高い感じであった。ロータリーの会員になるには、どこでもパドリーノという推薦人が必要であるが、ジェトロの人脈をたどり、ASSOLONBARDA(ロンバルデイア産業連盟)のオットラミ・ベルトラミ氏にたどり着いた。同氏は、イタリアの代表的な貯蓄銀行であるCARIPLO銀行の名誉会長で、イタリアの財界でも有名な人であった。今から思うと全く見知らぬ有力者にパドリーノの依頼をするのは無謀だったと思うが、コンタクトしてみると、快くアポイントが取れ、承諾してもらった。サンテイアゴでの経験が役に立ったようだ。夏休み前の96年6月に入会申請し、ようやく10月になって入会を許された。

ここでも有力企業、銀行や有力ビジネスマン、弁護士等々が名を連ねていた。語学書を7回くらい読み、独学でイタリア語を勉強したので、コミュニケーション力が相当不十分ではあった。そのため、時には、参加意欲が落ちることもあったが、決してずる休みしないと心に決め、出席に努めた。しかし、業務が多忙だったせいで、出席率は60%くらいであった。毎週火曜日に昼食会があり、そこで会員同志が昼食をとりながら、意見交換、懇談をするとともに、毎回ゲストスピーカーとして時々のテーマにつき話をするというものであった。会員は、結構国際的で、私が、イタリア語が不十分であるとわかると、英語やスペイン語で話してくれた。

ミラノでは、サンテイアゴやサンパウロと比べると外国人を家に呼んだりする習慣は、少ないので、会員同士の交流は比較的少なかったが、いくつかの思い出を紹介する。

一つは、ミラノ・スカラ座でのオペラ鑑賞である。ロータリークラブがスカラ座の一部を予約し、会員に提供するというものである。その時は、リッカルド・ムーティ指揮による「フィガロの結婚」であり、チケットの入手が極めて難しい演目であった。参加者全員大いにエンジョイした。さすが、オペラの国、芸術の国のロータリークラブだと感心したものだった。

もう一つのイベントは、ミラノのマルペンサ国際空港の見学会であった。当時、ミラノにはリナーテ空港があったが、離着陸能力の問題で、ミラノ郊外にマルペンサ新空港を建設中であった。オープニング前の見学で、新空港を隅々まで見せてくれた。

ロータリアンともなれば、いずれの日か例会でスピーチすることになるが、私にも要請があった。帰国前の1999年2月2日の例会で、私も下手なイタリア語を使い、「イタリアにいかに外資を導入するか」というテーマでスピーチした。

ミラノでは、月何回の食事のノルマをつくらなかった。何故なら、イタリアは美食の国であり、イタリア人との食事の機会が結構多かったこと、私自身、ジェトロ所長兼在イタリア日本商工会議所事務局長・理事であったため、さらにイタリアブームであったため、駐在員や来訪する日本人との会食が多かったからである。

ミラノのロータリークラブの会員も各方面の有力者が多かったので、仕事上も生活上も安心しておられたと言えよう。

「サンパウロのロータリークラブ」

第4回目の駐在地は、ブラジルのサンパウロ(2003年~2006年)であった。過去2回、ロータリークラブの会員であったので、サンパウロでも入会することにし、適当なクラブを探したところ、「パウリスタ通りクラブ」という会員数40名くらいの比較的小さなクラブが見つかった。日本のロータリークラブは入会金も会費も高く、なかなか入りにくいが、このクラブの場合、入会金なし、会費のみであった。その会費も毎週水曜日に行われる定例会の昼食代をやや上回る程度の金額であった。会合はクラウン・プラザホテルで開催されていた。

小規模であり、ブラジル人の国民性も反映してか、3つのクラブの中では最もざっくばらんで、すぐにアミーゴにしてくれるという雰囲気であった。メンバーには、多国籍企業の役員、コンサルタント、弁護士、医者等で定例会は、常に和気藹々でエンジョイすることができた。会員の家庭に招待されることもあった。ここでの思い出を紹介する。

一つは、サンパウロの競馬場での例会である。サンパウロでもそれなりに競馬が盛んであるが、一度競馬場で例会が行われた。食事をしながら、競馬を楽しむという趣向であった。日本のように馬券を自分で買うのではなく、レストランのボーイに馬券を買わせるという方法である。

もう一つは、リベルダージ・ロータリークラブ訪問である。ロータリークラブは、原則全回出席を義務としているが、時折どうしても参加できないことがある。その時には、ほかのロータリークラブの会合に出席すれば、コンペンセート(相殺)できるのである。出張の場合でも、出張地の複数のロータリークラブ会合の開催日を調べると、うまくこちらの都合に合うような時間にどこかのクラブの例会があるのだ。一度、サンパウロの日本人街・東洋人街として有名なリベルダージ・ロータリークラブに出席することにした。驚いたことに、会員はほとんど日系人で、日本語も通じるのである。まるで日本にいる感じであった。日本企業の駐在員はほとんどロータリークラブやライオンズ・クラブに入会しないので、珍しいこともあり大いに歓迎された。

駐在中に、関西でロータリークラブの世界大会が開催された。ブラジルも大デレゲーションを派遣することになった。しかし参加者の中に、他のクラブではあるがシリア系のブラジル人がいて、日本のビザが下りないということだった。サンパウロの日本総領事館に相談すると、私がギャランティー・レターを書けば出しますとのことであったので、喜んで提出し、無事ビザも降りることになった。本人からは大いに喜ばれた。

サンパウロでも、何か話せということになり、「ブラジルに外資の導入を図るには」というテーマで話すことになった。20人くらいの出席者なので、意見交換がさかんであった。

昨今、ブラジルからのニュースは、ラバジャット事件で見られるように、汚職、賄賂等ネガテイブなニュースが多い。そのためブラジル人に対してネガテイブなイメージを持ちがちであるが、このロータリークラブの会員は、地域社会の発展、教育、衛生等の問題について大きな関心を払っており、献身的に各種プログラムを実践していた。素晴らしい人格の持ち主が多く、会合に出席することが楽しみであった。私の持つブラジル人のイメージを大きく変えさせてくれた。

ブラジル人の家庭での懇親会

「ロータリークラブ入会の勧め」

このようにしてスペイン・ラテン、イタリア・ラテン、ポルトガル・ラテンという3つのラテン圏のロータリークラブに延べ10年弱在籍した。いずれのクラブでも日本人は私1人であったため、どこでも大切にしてもらった。私は、出来るだけ多くの日本人駐在員にロータリークラブ、ライオンズ・クラブ、キワニス・クラブ等のクラブに入会するように勧めたい。

ロータリークラブは、1業種1人と決められているようであるが、実はそれほど厳密ではない。サンテイアゴで入会した時に、業種につき聞かれたので貿易と回答したところ、貿易という業種の会員がいるので、私は、「東洋との貿易」というカテゴリーで登録された。この線で行くと、貿易分野でも、「日本との貿易」、「食品貿易」等々無尽蔵に業種が考えられるのだ。また女性の入会は認められていなかったが、1989年に入会が認められるようになった。サンテイアゴでもミラノでも当時、女性会員は見当たらなかったが、サンパウロでは、かなりの女性会員がいた。言葉の問題を気にする駐在員がいるかも知れない。心配は無用である。英語が相当通用するのである。私が現地語で説明にとまどっているとチリでは英語にしようか、イタリアとブラジルでは英語にしようかそれともスペイン語にしようかと助け船を出してくれた。彼ら会員は知的な人が多数を占めていたので、英語がもはや米国人や英国人が話す言葉というだけではなく、国際共通語として、またコンピュータの言葉として決定的であると認識しているのだ。

ではロータリアンになるとどういうメリットがあるのだろうか?心構えとしては、「奉仕」の側面も重視する必要があるが、下記紹介する。

第1は、友人ができることである。食事を一緒することによって、コミュニケーションを良くすることができるし、信頼関係を深めることができる。必ずしも仕事上に役立つ会員ばかりではないが、人生を豊かにしてくれるような人材が多い。私の場合、サンテイアゴ時代、ロータリーの友人に、事務所の労働問題の解決に多大なる協力をしてもらったことがある。

第2は、多くの会員と接することによって、多方面の情報を入手できるし、様々な人々との意見交換を楽しむことができる。あるロータリークラブに入会していれば、世界のロータリアンと繋がることができる。例えば、どこかに出張に行ったとして、その地のロータリークラブに気軽に参加できるのである。またロータリアンのバッジをつけていると、気軽に話しかけることもできる。

第3は、前述したが、楽しんで寄付集めをする方法を学んだことである。パーテイを開催し、ビンゴやオークションを行う。パーテイ代の一部は寄付に回すことができる。ビンゴやオークションの景品はすべて寄贈品のため経費ゼロ、参加者は喜んでゲームに参加し、お金を供出することを厭わない。そして多額のお金が集まる。余談だが、2008年にジェトロを退職し、関西外国語大学で教鞭をとることになった。最初の年の教職員懇親会の幹事長を命ぜられ、ビンゴを始めて実施することにした。大好評で、その後も継続された。

第4は、友人を通じて、人生というものは楽しむためにあり、楽しみながら長生きするのが理想なのであるということを学ぶことができた。

企業の駐在員は、何故かロータリ―クラブやライオンズ・クラブやキワニス・クラブ等に入会することに消極的である。しかし、人脈形成や駐在地の国民性の理解に役立つほか何よりも駐在生活が豊かになること請け合いである。