「チリの有力媒体に寄稿とその活用」

 

駐在当時のジェトロ・サンテイアゴ事務所のナショナル・スタッフのダリオ・グスマン氏は、極めて有能で大いに助けられた。同氏は、その後、ジェトロを退職し、チリ貿易発展局(PROCHILE)に勤務し、在日チリ大使館商務参事官・公使、在ソウルのチリ大使館商務参事官・公使として活躍するが、ガンのため若くして死亡した。グスマン氏は、チリの有力紙とも良好な関係にあった。彼を通じて、85年1月にチリの有力経営季刊誌の「GESTION」から日本のビジネスについての関連レポートを寄稿しないかと言うありがたいオファーがあった。喜んで引き受け、「日本人といかにビジネスするか」というテーマで執筆した。ダリオ氏に私がスペイン語で内容を説明し、彼に上手なスペイン語に翻訳してもらった。各ページ3段で10ページのレポートであった。幸い好評だったので、続いて、「日本企業の品質管理」(3段、8ページ)、「日本の輸出振興策の秘訣」(3段、5ページ)を連続して執筆した。せっかく執筆したレポートなので、出版社にお願いして、私のレポートのところだけを増刷させてもらうことになった。結局、「日本人といかにビジネスするか」は、7,000部、「日本企業の品質管理」は、4,000部、「日本の輸出振興策の秘訣」は、1,000部増刷した。その後、チリ各地でのセミナーや講演に活用したが、チリの有力経営誌に掲載されたレポートでもあり、大いに権威づけられ、チリ人ビジネスマンにも重宝された。

 

「家族を大切にする」

 

サンテイアゴ赴任に当たって、理想の駐在員像を自分自身で勝手に作り上げた。下記の5つの条件がすべてうまく行けば、駐在員生活合格としようと決めていた。

  • 本部が評価する仕事をすること
  • チリ政府、政府機関、経済団体、企業が評価する仕事をすること
  • 日智商工会議所等駐在員社会、日系コロニア、日本からの訪問者には可能な限り、役に立つようにすること
  • チリの地域社会に対する奉仕活動をすること
  • 家族が駐在生活をエンジョイできるように努めること

上記5つの内、家族を大切にする点について取り上げる。赴任当時は、長男は小学生、次男は小学校入学寸前、3男は幼稚園であった。家族の全員が駐在生活をエンジョイできるベストの方法は、可能な限り長い時間家族が一緒にいられる環境を作り出すことである。そのためには、

*一緒に旅行する

*学校、幼稚園の行事には積極的に参加する

*土曜、日曜には、一緒に近郊、近郊の温泉、スポーツ・クラブやショッピングセンターに出かける

*子供の誕生日パーテイ等には積極的に参加する

*宿題を手伝ったり、質問に対して丁寧に答える

*時間のとられるゴルフは必要最小限にとどめる 等を行った。

とりわけ、家族旅行には時間とお金をかけた。子供たちは今でも、チリ時代の旅行については良く覚えている。海外旅行では、アルゼンチンのバリローチェへのアンデス越えのバス旅行、ブラジルのリオ・イグアス・サンパウロ旅行、ペルーのリマ・クスコ・マチュピチュ旅行、アルゼンチン・ウルグアイ旅行である。一時帰国時に立ち寄ったニューヨークでは崩壊したワールド・トレード・センターの最上階まで登ったのも思い出である。帰国時には、マイアミ・オーランド・メキシコシテイに立ち寄ることができた。チリ国内旅行では、世界遺産のイースター島、北部砂漠地帯の第1州から第3州の旅行、世界最大の露天掘りのチュキカマタ銅山の見学は忘れられない。その他、第10州の湖地帯のプエルト・モン市と世界遺産のチロエ島、第10州のカレテーラ・アウストラルと呼ばれる道無き道の走破と第11州の氷河見学も子供たちとっては、エクサイテイングナ経験であったことだろう。

 

「NHKの番組への協力」

 

1987年1月から12回に渡り、「地球大紀行」というNHKの大型ドキュメンタリ・シリーズが放映された。46億年の歴史を持つ惑星である地球の歴史を巡るドキュメンタリーである。その10回目として、「資源が産んだマグマ噴出」というテーマで、資源ができるメカニズムを南米アンデス山脈で明らかにするというストーリーの番組が組まれた。

NHKは当初在京のチリ大使館に協力を求めた。当時のグスターボ・ポンセ大使は協力を約束し、私の方にも手伝って欲しいと電話連絡してきた。簡単なアドバイスだけで済むものと思ったが、とんでもないことで、アポイント先の調整、NHKリオ事務所との連絡調整、セスナやヘリコプターの手配等やるべきことがどんどん広がって行った。NHKは経費節約のために、セスナやヘリコプターをできるだけ安くチャーターしたいのでチリ空軍に折衝して欲しいという。ポンセ大使からのレコメンデーション・レターをもらい、チリ空軍に3度ばかり足を運び、ほぼ原価に近い価格で、セスナとヘリコプターを借りることに成功した。一方、ブラジルでも同様に借りる必要があったが、NHKのリオ事務所は商業ベースで借りたため、チリの価格より3倍以上かかることになった。また、取材班の1人が糖尿病の薬の持参を忘れたため、NHKから空送してもらったものの、例によってチリ税関でさし止めをくらった。命に係るので何とかして欲しいと頼み込み、ようやく通関させてもらった。あれやこれやで相当のエネルギーを費やしたので、当然ながら協力機関の1つとして、「ジェトロ」のクレデイットを入れてくれるものと思っていたが、NHK側は難色を示す。開き直って協力しないと宣言すると、最後にはOKになった。番組は1987年10月に放映されたが素晴らしい出来栄えであった。

1988年初めに日本に一時帰国した際に、NHKから連絡があり、是非とも会いたいという。NHKでは今度「高校地理」の番組で「チリ」を制作することになったので、また協力して欲しいという。私は、チリを日本人に広く知ってもらいたいと考えたので、全面的に協力することとした。今度は、番組にストーリーからアポイントの取り付け、通訳、全体調整まで引き受けた。チリ南部の湖沼地帯でのサケ養殖や氷河地帯での取材にも同行した。一連の協力で、約1ヵ月間、ジェトロの仕事ができず、まるでNHKの職員になった感じであった。日本人にチリをもっと知ってもらいたいという一心であった。

 

「ジェトロ・サンテイアゴ事務所所員全員を解雇した話」

 

帰国寸前に、ロータリークラブの友人に助けられたことがあった。当時、ジェトロ・サンテイアゴ事務所には、3名のナショナル・スタッフがいた。昔からずっと、サンテイアゴ事務所では、チリの労働法に反して給与をネットで支払うのみで、社会保険、健康保険、年金等については支払っていなかった。88年10月にピノチェット大統領がさらに8年間政権を継続するか否かを問う国民投票が行われ、チリ国民は15年間続いたピノチェット政権に、「NO」という審判を下した。次の大統領選は予断の許さない状況下にあったが、ピノチェット政権に代わり、エイルウイン政権になった場合、労働者寄りの政策がとられることが予想できた。仮にサンテイアゴ事務所で労使問題が発生した場合、確実に敗訴し、大きな罰金が科されることになる。そこでロータリークラブの長老で弁護士のルーカス・バコビッチ氏に相談したところ、同じロータリークラブ会員の息子のミラスラフを紹介してもらった。いろいろ智恵を絞ってもらった結果、全員をいったんすべて解雇し、新規に雇いなおすしか方法がないということになった。事務所のナショナル・スタッフの給与は他の日系企業に比して低いものであったが、彼らの将来を考え、英語やコンピュータの研修に派遣したり、超過勤務等で日常より配慮していたこと、再雇用の際には給与のベースをあげた上に社会保障、健康保険、年金を加えた額で契約するという条件を提示したため、トラブルもなく、全員私の提案に応じてくれた。最終的に、私の入院中の89年6月に決着が着いた。ロータリークラブの友人には、本当にお世話になった。