ジェトロには、1967年に入会し、68年から69年にかけて、1年弱、研修でスペインのマドリード大学(現コンプルテンセ大学)に留学した。今から思うと恥ずかしいことでいっぱいだったが、当時としては真面目な話であった。

 

「ワインは甘くなかった」

 

1968年7月1日に初めて飛行機に乗って、スペインに出発した。飛行機は後ろの方の席で、エンジン音が非常にうるさかったことを記憶している。当時のエール・フランスは羽田を出て、アンカレッジで給油し、ハンブルグ経由パリに向かうというルートであった。パリで他のフライトに乗り換え、マドリードのバラハス空港で前任者の水吉徹夫さんに出迎えてもらった。その夜、北川幸昌駐在員主催の夕食会に招かれた。レストランは、マヨール広場の近くにある有名な「ラス・クエバス・デ・ルイス・カンデラス」であった。ルイス・カンデラスという稀代の盗賊の洞窟という名前から想像できるように、内装が洞窟のようなレストランであった。その時、食べたイワシの塩焼きは、今だに忘れられない。飲んだワインが甘くなかったので、びっくりして、「ワインって甘くないのですね」と聞いてしまった。社会人になって2年目であり、ワインと言えば、飲むと頭が痛くなる寿屋の赤玉ポートワインしか飲んでなかったのでそういう質問が出てしまったのである。駐在員と前任者に大いに笑われてしまった。

 

「羽田―マドリード間の航空運賃は、月給の12カ月分」

 

ジェトロに入会1年後の1968年7月に研修でスペインに行く機会に恵まれた。当時の月給は、29,000円強であったと記憶している。その時の東京―マドリード往復エコノミー航空賃は、今でも鮮明に覚えているが、36万円だった。要するに1年間強、飲まず食わずで働いてようやく購入できるほど貴重なものであった。ジェトロが私にこれほどの金額を投資してくれるのだと身の引き締まる思いであった。飛行機に乗るのは全く初めてでエール・フランス機の後方の席であった。何もかもが珍しく、機内を見回したり、食事台や灰皿等を確認した。前方によくテレビなどで見た人がいた。歌手の菅原洋一さんで、彼も飛行機が初めてなのか相当そわそわした様子であった。後でわかったことだが、コンチネンタル・タンゴの演奏で有名なアルフレッド・ハウゼのところに勉強に行くとのことであった。エール・フランス機はアンカレッジ、ハンブルグに着陸し、最終地のパリに向かうフライトであった。アンカレッジの空港にうどん屋さんがあったのは、何故か印象的であった。現在だと割引航空券や格安航空会社を使用すると初任給でも2回くらい欧州往復が可能であるが、当時の航空券は大変高いものであった。

 

「Plato Combinado」

 

今から思うと恥ずかしいことであるが、スペイン到着直後の1ヶ月間、スペインのレストランでは、必ずフルコースかフルコースに近いものを注文しないといけないものと勝手に考えていた。その結果、お金はかかるし、時間もかかる。その内とあるBARに入ったところPlato Ccombinadoというメニューがあることを発見した。要するに1つの皿にいろいろな料理が盛りつけられているもので、日本でいう定食のようなものである。何ら珍しいものではないが、この皿を見つけた時は、これで時間とお金が節約できると本当にうれしく思ったものだった。マドリードに到着したのは、夏でメロンの時期であった。メロンの味は格別で、値段も安く、大きいメロンを1つ買って、まるまる食べるとお腹が一杯になった。

 

「スペイン語の2人称、túの使い方」

 

大学時代にスペイン語を勉強した。当時の高名な日本人教授は、『スペイン語の2人称、「tú」(君)は、親子や親しい友人間にのみ使用されるので、君たちは覚える必要がない。3人称の「usted」(あなた)をしっかり覚えなさい。』と教えてくれた。ところが、マドリード大学に留学した際、大学都市に一歩でも入ると学生仲間では、みんなtúで話すのである。これにはびっくりするとともに、高名な教授は、スペイン留学中にスペイン人の友人ができなかったのかもしれないなと想像した。当時、毎日、新聞を購入して読んでいると、必ずと言っていいほど、全く見知らぬ学生が、新聞を貸してくれと言うので大いに驚いたものであった。日本では、見知らぬ人に新聞を貸してとは通常、言わないので最初はとまどったものであった。