執筆者:桜井 悌司(NPO法人イスパJP)
ご承知の通り、チリは細長い国である。一番細い所は、海岸から国境までわずか70キロメートルと言われている。南北に約4,300キロメートルにも及び不思議な地形の国である。
チリのサンテイアゴ市にジェトロ事務所長として、1984年12月から1989年6月まで4年半駐在した。出張や家族旅行をしているうちに、可能な限り、何とか陸路を走ってみたいと思うようになった。自動車でも、バスでも、鉄道でも何でもよいから陸路を走るということである。現在では、チリは、首都圏州を含め、15州になっているが、当時は、北から南まで首都圏州を含め13州であった。と言っても、最南端の第12州と第11州の間は、陸路が通じていなかった。当初は、特に縦断などという大それたことを考えていたわけではなかったが、出張や家族旅行をしているうちに、チリを可能な限り、陸路で縦断できれば、記憶に残る思い出になると考えた。
チリの州(Region)を北から南へ順番に並べて行くと下記のようになる。チリの州の場合、番号と名前がついている。州都も入れる。
第15州(アリカ・パリナコッタ州、アリカ)
第1州(タラパカ州、イキケ)
第2州(アントファガスタ州、アントファガスタ)
第3州(アタカマ州、コピアポ)
第4州(コキンボ州、ラ・セレナ)
第5州(バルパライソ州、バルパライソ)
首都圏州(サンテイアゴ)
第6州(ベルナルド・オヒギンス州、ランカグア)
第7州(マウレ州、タルカ)
第8州(ビオビオ州、コンセプシオン)
第9州(アラウカニア州、テムコ)
第14州(ロス・リオス州、バルディビア)
第10州(ロス・ラゴス州、プエルト・モン)
第11州(アイセン州、コジャイケ)
第12州(マガジャネス州、プンタ・アレーナス)
1)アリカ(第15州)からイキケ(第1州)へそしてアントファガスタ(第2州)へ
1987年7月に、チリ北部に、家族旅行で出かけた。世界最大の銅鉱山であるチュキカマタを子供たちに見せたいというのが主目的であった。サンテイアゴから飛行機でカラマに行き、チュキカマタの壮大さと運搬トラックの巨大さにビックリした後、バスでアントファガスタに出た。アントファガスタからイキケまでは、飛行機で、イキケから泥の温泉として有名なマミーニャ温泉に出かけた。大変牧歌的な温泉で、入浴中に停電になり、大いに慌てたことを思い出す。イキケに戻り、そこからアリカまで4時間ばかりかけてバスで行った。約310キロであった。この辺りは、まさに砂漠地帯が続くと言う景色であった。アリカ観光をエンジョイした後、タクシーでペルー領のタクナにも出かけた。
別の機会にイキケに出張があり、その際に、イキケからアントファガスタまで約420キロをバスで7時間くらいかけて旅行した。
2)コピアポ(第3州)、ラ・セレーナ・トンゴイ・ピチダンギ(第4州)
コピアポには、サンテイアゴから小型飛行機で出張し、その後、アントファガスタまでの約570キロをバスで出かけた。相当時間がかかったことを覚えている。当時、コピアポの砂漠の中に突如としてブドウ畑が出現し、テレビ、新聞や雑誌で大きく取り上げられていた。
1986年3月に、商社の友人家族と私の家族で第4州のトンゴイに2泊3日で釣りに出かけた。車での旅行で、友人の友人の別荘に宿泊し、釣りを楽しむというものであった。適度に魚も釣れ、子供たちも大喜びであった。
別途、1987年12月には、第4州のピチダンギという保養地に、車で出かけた。そこで魚釣りをしたのだが、ぺヘレイという70センチを上回る大きな魚を子供たちが釣り上げた。いまだにみんなで集まると話題になる。
3)バルパライソとビーニャ・デル・マル(第5州)
第5州は、サンテイアゴのある首都圏州と隣接しており、バルパライソまでは、約120キロである。バルパライソ(天国の谷)は世界遺産、その隣のビーニャ・デル・マルは風光明媚なビーチや国際歌謡コンクールで有名な名所であるため、東京からの来客者をほぼ必ずと言っていいほど案内した。お客様と一緒に、ビーチサイドの瀟洒なレストランで海産物と白ワインを愉しむと大いに感激されたものであった。前任地のメキシコ駐在時代に、シテイからテオティウアカンの太陽のピラミッドに出かけるような感じであった。
4)チリ南部への旅行
- 最初のバス旅行 サンテイアゴ市から第10州経由アルゼンチンのバリローチェへ
赴任直後の1985年4月に思い切って、家族でアルゼンチンのバリローチェにバス旅行に出かけた。小さい子供3人を連れての旅行で、今から思うと無謀な旅であった。最初の日は、第6州、第7州、第8州、第9州を通過し、現在の第14州の州都のバルディビアで宿泊した。翌日は第10州のオソルノ市を経由して、アルゼンチン領に入り、南米のスイスと呼ばれる風光明媚なバリローチェに一路向かった。アンデス越えで延々と続く6時間以上の旅であった。子供たちもよく我慢をしてくれたものだ。第10州は、「湖の州」と呼ばれるだけあって、美しい風景が続き、富士山のようなオソルノ山も十分に時間をかけて見ることができた。アルゼンチンのバリローチェも南米のスイスと言われるだけあって、クリーンで美しく、広場には、すごく大きなセントバーナード犬がたくさんおり、チョコレート工場の見学も楽しいものであった。この時に一緒したチリ人たちは、全員素晴らしい人たちで、サンテイアゴに戻ってから2回も旅の同窓会を開いた。チリ人の国民性の一端を理解することができた。この旅行で、家族連れの旅行に自信をつけることができた。
- クリコ(第7州)、パニマビダ温泉(第7州)、チジャン(第8州)へ
チリ人の友人から田舎の町に来ないかと言う誘いを受け、1985年に第7州のクリコに家族揃って車で出かけた。クリコまでの距離は207キロである。心温まる歓迎を受けたが、とりわけ印象的なことは、天空の星の美しさであった。それまでは、天の川(Via Lactea)という言葉を頭の中では知っていたが、実際に見てみると言葉にならないほど美しく感動的であった。その後サンテイアゴ近郊の温泉でハレーすい星を見た時も感動したが、クリコの夜空はまさに圧巻であった。
1985年7月には、大使館のM書記官の家族と一緒に、家族で第8州のチジャンにスキー旅行に鉄道で出かけた。サンテイアゴからの距離は約400キロである。M書記官はスキーの名手で、我が家族は初心者集団であったが、子供たちは、スキー場のコースに入会させて練習させた。リフトに乗って、滑降するのであるが、下に戻るまで、数えてみると100回以上転んだことを今でも思い出す。温泉自体はなかなか良かった。
1986年9月に、日本人学校のN先生の家族と一緒に、第7州のパニマビダに車で出かけた。293キロの行程である。ミネラルウオーターや温泉として有名であるが、家族で休暇を楽しんだ。チリは火山国なので、温泉が多く、サンテイアゴの近郊でもエル・コラソン温泉やハウエル温泉という手ごろな温泉地があり、家族で頻繁に出かけたものだ。
- 第10州のプエルト・モン、プエルト・バラス、チロエ島へ鉄道とバスで
1986年12月に、家内の母親が遊びに来たので、家族全員でペルーのリマ、クスコ、マチュピチュに出かけた。帰宅後、もう一回どこかに行こうということで、南部の第10州のプエルト・モン、プエルト・バラス、チロエ島に鉄道で出かけた。サンテイアゴからプエルト・モンまでの距離は1、031キロである。第10州は、湖が多数あり、見るところが多いし、食事もおいしい。チロエ島は世界遺産に登録されており、すべて牧歌的で、クラントという地面に穴を掘って蒸す料理が珍しかった。プエルト・バラスはバラで有名なところである。
- カレテラ・アウストラルの旅
1989年1月に、JICAの専門家のH氏夫妻と一緒に、家族帯同で第11州のラグーナ・サンラファエルに氷河を見に行こうということになった。ラグーナ・サンラファエルには、当時、スコルピオス号と呼ばれる船に乗って出かけるのが定番であったが、違う方法でチャレンジすることにした。カレテラ・アウストラルを利用しての旅である。カレテラ・アウストラル(南の街道)とは、ルート7号線で第10州のプエルト・モンから第11州のビジャ・オヒギンスまでパタゴニアを経由しての1、240キロの街道である。アウグスト・ピノチェット大統領が軍事政権の威信をかけて建設したもので、1976年に建設を開始し、1988年に一部開通、1996年に完成したとチリのウイキペデイアが記している。我々は、サンテイアゴからプエルト・モンまで飛行機で行き、そこから小型飛行機に乗って、約170キロ離れた対岸のチヤイテンまで到着した。チヤイテンからコンビというフォルクスワーゲンの小型バスに乗って、コクラネまで一路南下する。おそらく、約420キロ程度の行程である。舗装されているわけではなく、砂ぼこりだらけで、平均時速は、30キロである。途中で、レオナルド・ダ・ヴィンチが考案した方法で川を渡ったり、羊の大群に進路を邪魔されたりした。砂ぼこりまみれのため全員が喉を傷めた。食事の時間は楽しみなものだが、出るものはいつも脂ぎった羊の肉ばかりで、羊嫌いになるほどであった。1990年代半ばに、ミラノに駐在した時に、ローマで食べた羊の肉があまりに美味しかったので、同じ羊かと驚いたものであった。途中、火山国チリらしく、温泉などもあり、ゆっくりしたひと時を過ごすことができた。子供たちには、サバイバル・ゲームの経験をさせたような旅であった。
コクラネからは、小型機に乗って待望のラグーナ・サンラファエルを空から見学した。氷河色の澄み切ったブルーは忘れられない。ほこりまみれのカレテラ・アウストラルのサバイバル・ツアーから解放され、子供たちもホットしたことであろう。氷河の氷が落下する時に生じる爆音も聞くことができた。ラグーナ・サンラファエルには、別途、NHKの取材班に同行を頼まれ、もう一度セスナから氷河を見ることができた。もう2度と来ないと思っていると、意外に夢がかなうものだということがわかった。
氷河見学の後は、第11州の唯一の都会である人口約5万人のコジャイケにたどり着いた。町に入ると、チリの国旗が半旗になっていた。近くのチリ人に理由を聞いたところ、大いに笑われた。「お前たちの天皇が逝去されたので、チリ国民は哀悼を表するために半旗にしているのだ」ということであった。そう言えば、カレテラ・アウストラルでは、通信手段やテレビとは無縁の旅行だったので、昭和天皇が、1989年1月7日に崩御されたという情報をつかんでいなかったのだ。それにしても、チリ人の配慮には感動したものだった。
ということで、北から南の第11州まで何とか陸路で走ることができたことは幸運なことであった。