「海外で日本の花火を打ち上げる」

日本の夏を彩る花火は本当に素晴らしい。世界で最も優れていると言える。したがって、海外で開催される大型見本市の併催事業として最も華やかで印象的なイベントは花火の打ち上げである。海外で花火を打ち上げるとなると、いろいろ手間ひまがかかる。経費も2~3000万円はかかるし、専門の花火師の渡航費もかさむ、内容が爆発物なので輸送上の問題や保管の問題もある。通常、軍隊の倉庫に保管される。したがって、各種手続きが大変なのである。私は直接に花火打ち上げに従事したことはないが、海外での3回の見本市・博覧会で経験した。最初は、1973年のブラジル「サンパウロ日本産業見本市」、1977年のベネズエラ「カラカス日本産業見本市」、1992年のスペイン「セビリャ万国博覧会」である。サンパウロ日本産業見本市はブラジル・ブームの最盛期に開催されたこともあり、2回打ち上げた。1度目は、通常の打ち上げ花火の他に、イグアスの滝(日本や米国でやる時はナイアガラの滝と言っている)という水が流れ落ちるように花火も行った。大好評で翌日の新聞に大きく取り上げられた。2回目の花火の日を予告した記事も掲載されたが、ある新聞は間違った打ち上げ日を知らせた。私は大いに心配になり、広報アドバイザーであったウイルソン高橋さんに相談したが、「何の心配もいらない」と言う。理由を尋ねると、ブラジル人はそんな細かいところまで読んでいないし、また本当に花火をもう一回見たい場合は、確認してくるということであった。さすが大まかなブラジル人と思った。カラカスでも異常な人気を呼び、開会式に招待された要人は感動していた。打ち上げ時には、近くの高速道路で通行する自動車は、一時停止し、終了まで見ていたとのことであった。3度目は、セビリャ万博の時である。東京都が2,000万円を拠出し、1992年7月21日の「東京デー」のメイン・イベントとして実施した。同時に「東京デー」のレセプションを日本館の太鼓橋の上の大舞台で行い、大舞台から花火を見るという趣向であった。この時も招待客は日本の花火の素晴らしさに感激し、大いに喜んでもらった。今はやりの「クール・ジャパン」の先駆けであった。

「スペインが最も輝いた年」

1992年はスペインが大いに輝いた年であった。コロンブスのアメリカ大陸到達から500周年を迎える記念すべき年であった。この年、スペインは3つの偉大なイベントを同時に行った。セビリャ万国博覧会、バルセロナ・オリンピック、マドリードがヨーロッパ文化都市に選ばれたことである。オリンピックと万国博覧会を開催した国は、比較的少ない。ヨーロッパでも、英国、フランス、ドイツ、イタリアくらいであるが、スペインは同じ年に万博とオリンピックを開催した唯一の国である。欧州文化都市は、ギリシャの女優であり文化大臣であったメリナ・メルク-リ女史が提唱し、1985年より始まったもので、欧州連合が指定した加盟国の都市で、一年間にわたり集中的に各種の文化行事を展開する事業である。この年、マドリードで数々の文化イベントが繰り広げられた。マドリード、セビリャ、バルセロナと地域的配分も見事なものであった。スペイン政府は、大臣、政府高官などを動員し、これら3つのイベントを物心ともに強力に支援した。スペインが誇るオペラ歌手やフラメンコ・ダンサーなども大忙しであった。セビリャ万博の音楽監督は、かの有名な3大テノールのプラシド・ドミンゴであった。バルセロナ・オリンピックの開会式のオペラ歌手総動員は見事なものであった。フアン・カルロス国王も超多忙で、セビリャには、オープニングやクロージングを始めとし、何度も足を運んだ。バルセロナではオープニング式典でカタルーニャ語で挨拶したり、スペイン選手を熱心に応援したりした。国王直々の応援もあって、スペイン選手は大活躍で、金メダル、13個、銀メダル、7個、銅メダル、2個と合計22個のメダルを勝ち取ったのである。国王さまさまであった。

「孤児院の子どもたちを日本館に招待した話」

7月20日のジャパン・デーが終了したこともあり、日本館にも平穏な状況が続いたが、事務局員、アテンダントにも中だるみ現象が生まれてきた。そこで、事務局員に広く呼びかけ、何かイベントをしようと提案した。事務局員の桜井さんより、孤児院の子供たちを招待してはどうかという提案が出され実行に移すことにした。幸運にも、日本館にコカコーラの自動販売機(安藤忠雄氏の強い意向で赤色ではなくコンクリート色の自動販売機になったが)の設置と引き換えに、日本コカコーラより数々の支援をいただいた。このプロジェクトについては、280枚の万博入場券と同じ数のギフト(時計、ラジオ、ノベルテイ等)をいただいた。早速、チームを作り、桜井さん、松本さん、長島さん、イサベルの4名が担当することになった。4名は色々なアイデアを出し合ったが、最終的にセビリャの施設の恵まれない子供たちと引率者を招待することにした。4名は、博覧会公社のイグナシオ・ブスト氏と連絡を取り、アドバイスを求めた。セビリャには7つの施設があることがわかり、ちょうど248名の子どもたちと引率者を招待することにした。招待日は、8月24日とした。当日までに用意万端の準備を行い、特に問題もなくスムースに迎えることができた。子供たちは、日本館からのギフトに大いに満足し、喜んでいた。準備をした日本館の事務局員、アテンダントも子供たちの笑顔を見て、幸福な思いをしたものだった。この日のプログラムは、セビリャの新聞にもリリースしたが、エル・コレオ・デ・アンダルシア紙に、「日本は子供たちを忘れていなかった」という見出しで大きく取り上げられた。

セビリャ万博も終了しようとしていた時、何かセビリャ市に社会貢献できないかと考えた結果、終了後、孤児院や子供病院に出かけ、慰問しようというアイデアが事務局員の中から出された。日本館内で売店を運営していた三越に相談したところ、ギフトの在庫があり、極めて安価な料金で、日本館に譲ってくれるという。そこで、子供たちが喜ぶようなギフトを手に入れ、孤児院や子供病院等に出かけることにした。11月以降に合計3回に渡って慰問することにした。子供たちは、日本館の種々のグッズを受け取り、喜色満面であった。

「日本館建設と為替差損」

日本館の建設は、公共入札のルールに従い、国際入札を行った、日本企業3社、スペイン企業5社の計8社が応札した。結局、竹中工務店が落札した。正確な落札額は手元にないが、19億円程度であったと記憶している。入札額は予定価格の範囲であったが、当時のスペイン経済は好調で、通貨ペセタが高騰し、対円で20%くらいの切り上げになった。建設費や設計費等外国で支払う金額をチェックすると合計5億円くらいの赤字が見込まれることになった。早速関係者に連絡した。堺屋プロデユ―サーは、入札の時には問題なかったので関知しないと言う。通産省はびっくりしたが、当初はどうしてよいかわからないため真面目に対応しなかった。当時の水野上副理事長に呼び出され説明することになった。要は5億円をどうするのかがポイントであった。私は、為替差損は当事者の関知するところではなく、不可抗力なので、通産省に負担していただくしかないと説明した。当時はまだ、バブルは崩壊前であり、日本経済も元気があった。神様に「円高になりますように」と毎日祈ったところ不思議なことに円が強くなってきた。最終的には、通産省の方で1億円程度予算を付けていただき、この赤字事件も一件落着した。我ながら運が強いと思ったものであった。為替の恐ろしさも実感した。