「はじめに」

スペイン国旗に見る不思議を見ていきたい。

1.根拠法

1-1.スペイン憲法

1978年 10 月 31 日、国会承認。同年 12 月 6 日、国民投票による承認。同年 12 月 27 日、国王による裁可。

同年12月29日、官報第311号による公布。

序編

第四条〔国旗、州旗、州記章〕

1項 スペイン国旗は、赤、黄、赤の三本の水平縞地から成り、黄の縞地は、赤の縞地の二倍幅とする。

2項 条例により、各自治州は各々の州旗および州記章を定めることができる。

州旗および州記章は、公共建造物および公的儀式において、スペイン国旗とともにこれを用いる。

出所:阿部照哉・畑博行、2009、世界の憲法集第四版、p197、有信堂

1 Bandera con escudo 国章付国旗

図2 Bandera sin escudo 国章無国旗

出所:http://vexilologia.org/banderasespanolas/banderaescudonacionales/ 1-2.国旗に関する法律および勅令

①1977年1月21日付政令1511号(Real Decreto 1511/1977, de 21 de enero)国旗およびその他旗、記章類に関する詳細規則についての勅令

 

②1981年10月28日付法律39号(Ley 39/1981, de 28 de octubre)スペイン国旗およびその他旗、記章に関する用法についての法律

第一条  スペインの国旗は国を象徴し、それは国家の主権、独立性、統一性および完全性の印(サイン)であり、憲法で表現された優れた価値を表わす。

第二条  一項 スペイン国旗はスペイン憲法第四条の条項に従い、赤、黄、赤の三本の水平縞から構成され、黄縞は赤縞の2倍の幅。

二項 黄縞の中に、規則で規定されている方法で、スペイン国章を配することができる。(以下、略。)

 

③1981年12月18日付勅令2964号第三条(官報29376号)(Real Decreto 2964/1981, de 18 de diciembre,

Ref. BOE-A-1981-29376)による国章の図案について規則

1977年勅令は鷲の国章における規則であったが、1981年現国章に変更されたための国旗の規則変更となったもの。

 

④規則第一 国旗

4 スペイン国旗 国章付国旗

1.記述:スペイン国旗は、赤、黄、赤の三本の水平縞地から成り、黄の縞地は、赤の縞地の二倍の幅とする。

2.サイズ:旗の縦幅(anchura) a、旗の横幅(longitude) 3/2a とする。

(縦:横=2:3)

3.製品:絹、タフタ織、ウールもしくは合成繊維、等

4.使用:全般

5.旗の大きさ:セレモニープロトコルコード 第一章20号による。

 

 

2.スペイン国旗の歴史とその変遷

 古代イベリア半島に住んだ様々な人々が、自分達を特定するために何らかの旗印を使用したと仮定することができますが、私たちはこの事実の証拠書類は何ら持っていない。 ローマの支配の時代には、軍団がすべての征服を導く記章をその土地に持ち込んだ。西ゴート族はそれを使用し続けなければならないことは明らかだった。サンイシドロ*は彼の時代の軍隊について話す時にそのことに言及する。

図5 ヴェクシラム vexillum ローマ時代の旗印 旗の語源

サンイシドロ*:セビリャのイシドールス 中世初期の神学者「インターネット利用者およびプログラマー」の守護聖人。全 20 巻にもなる「語源」という中世最初の百科事典を執筆。当時彼が記した「語源」は知の集であり、まさに今のインターネットのようなもの。

 

今日、私たちが知っているような旗をイベリア半島に導入したのは、アラブ人だった。すなわち、布が垂直に波打ち、ポールに固定されていました。 アラブ人達はしばしば、特定の色を特定の王朝、例えばウマイヤ朝とアルモアデ朝の白、またはファチマ朝の緑と関連付けました。

6 アラブ人の旗

レコンキスタ時代、キリスト教徒はローマ人と西ゴートから継承された記章を放棄した。徐々に彼らの敵である

イスラム教徒の様式の旗を採用した。違いは布地に同じ形と色をその盾と同じように配置したのである。半島のそれぞれの王室の旗には、12世紀半ばより、それぞれの色、印章が表れ始めた。続く13世紀には次のような紋章が表れた。:カスティーリャ・レオンの城とライオン、カタルーニャ・アラゴンの縞、ナバラーの鎖など。

13世紀には、使用された旗の多様性が非常に大きかったので、アルフォンソ10世賢王はその形式、命名、使用方法を『七部法典』において定めた。

7 スペイン各国の旗

アルフォンソ十一世、カスティリャ・レオン国王(1311-1350),はバンダ騎士団を創設した。個人の紋章としてのこの騎士団のギオン・ペンドン*として初めて使用され、カルロス5世の治世まで使用された。この習慣は王室の個人旗となり、王国と王室の間の記章を分離するに至った。フランコ総統はスペイン内戦の後、個人スタンダード(個人旗)としてこの記章を蘇らせた。

図8 カルロス5世の個人旗(ギオン)

ギオン・ペンドン*はイギリスでいう個人旗であるBannerバナーに相当
カトリック両王もカスティリャのバンダ個人旗(ギオン)を使用した。くびき(牛の首輪)と矢を使用。これは両王のイニシアル F(Fernando)と Y(Ysabel,Isabel)であり、有名な“TANTO MONTA”の伝説に由来。しかし、旗は国家の性格を帯びることなく、軍隊がそれぞれの指揮官の紋章のついた部隊旗の下で戦闘を繰り広げた。

9 Fernando 王の個人旗 yugo Isabel女王の個人旗 Flecha

・くびきはスペイン語で Yugo 、Y はイサベル女王 Ysabel(Isabel) 。『ゴルディアスの結び目』伝説に由来。

・矢は Flecha 、F はフェルナンド王 Fernado を表す。アレクサンダー大王の『3本の矢』に由来。矢は力、結合の象徴。

・お互いのイニシアルを意識して交互に個人旗(guion)として両王は使用した。

・「TANTO MONTA(同じである)」の意味から、イサベルとフェルナンドはそれぞれ相手の地(カスティーリャとアラゴン)で両王は平等に統治するということも表すと言う。

 

狂女王フアナと美王フェリッペとの婚姻はスペインにブルゴーニュ十字の今の時代まで遡るその形の導入をもたらした。それはフランスに起源があり、その特徴的なデザインは X に形つけた木の二つの丸太を表す。切った枝の付け根、幹のこぶを残している。さらにしばしば赤色で、普通その下地は白か黄色。

図10 ブルゴーニュ十字の旗

1700年からのブルボン王朝への愛着を寄せる改革派の精神は再組織・規則の上で、旗の基準を導入した。

つまり一般規則としての白色の使用、その色はブルボン家の色として考慮された。時折、白の下地にブルゴーニュの十字を配置され、また王の紋章と同時にその他の紋章(城、ライオン、他の市章と組み合わされた。

 

18世紀末ごろ、ブルボン家諸流王家がフランス、スペイン、ナポリ、トスカーナ、シチリアで王政復古となった。

これらの王国の旗はすべて白色を共通としていた。違いはそれぞれの国章に表れていた。しかしそれは海上では見分けがつきにくいという混乱が生じ、時折重要な問題も発生した。1785年、カルロス三世はスペイン船籍のために、遠くからでも簡単に見分けができる一つの旗を採用することを決定した。海軍大臣、アントニオ・バルデスが王に12のデザイン画を示し、王はスペイン国旗として我々が今日知る形と色の旗を選んだ

 

図12 12のデザイン画

その旗の承認の政令に書かれていることは非常に興味深い。それには『経験が引き起こした不都合や損害を避ける

ために、私の海軍艦隊や他のスペイン船舶によって使用されている国旗を、長距離や静かな風の中で、他国の国旗と混同避けることが出来る。』将来的に戦闘時の旗は3つの縞に分けられ、旗の上部と下部赤い血色とし、その縦幅は全体の四分の一の幅とする。真ん中には黄色縞とする。同政令では、商船には違う旗を示し、織物に交互に並んだ5本の帯、3本の黄色と2本の赤が配され1927年まで使用されていた。

 

 

 

3 カルロス三世制定の国旗(左)と商船旗(右)

カルロス三世によるこれらの彩色を選ばせたその動機について調査研究が行われ、シンボリックな説明が追及されている。それは黄色は帝国の黄金を表し、赤色は国家救済の犠牲で流された血を表すと。さらにかなりの頻度で赤と黄はカスティーリャとアラゴン、ナバラの支配的な色で表れていた。カスティーリャの紋章とアラゴンの色の組み合わせを思い起こすものが表れている。しかし、我々が認識する唯一の実務的な理由は、

図14 Por Real Decreto de 28 de Mayo de 1785 1785 年カルロス三世の勅令

旗は遠くから認識できることにある。対仏スペイン独立戦争とフェルナンド 7 世(1814 年〜1833 年)統治時代の混乱の中、その混乱と諸事情は記章の統一を妨げていた。軍団、ゲリラ部隊、自衛軍のそれぞれ独自の記章・バッジ、 宗教的なモチーフ、愛国的なフレーズ、地域の図案など膨大な数に上った しかし、赤色と黄色はスペイン国家の代表としてそのまま用いられてはいた。

その統一の時は、ついに、1843年10月13日の暫定政府の勅令で始まった。勅令は、国旗と陸軍の軍旗との違いを抑える必要性を明らかにし、 陸軍、海軍、民兵組織を構成するすべての機関や研究機関の旗やスタンダード軍団旗は、スペイン戦争の旗と同じ色を使用し、それらを同じ配列にすることとされた。このように、血と金の旗は海軍を専属のものから全ての軍隊に共通のものになり、同時に国旗として公式に認知されたものとなった。

しかしながら、19世紀を通じて、いくつかの共和派では、血と金の旗が君主制の象徴であったという考えが浮上した。彼らの考えは、スペインの全国民を完全に表現する別の旗章を提唱し始めることであった。 この旗(図15)は赤と黄色に紫色を追加し、「カスティーリャの旗」として(誤って)考えられた。 それにもかかわらず、第一共和国宣言は、国章に王冠が削除されたが、国旗の変更までは及ばず、二色のままであった。 この状況は、王政復興後も続き、ただ当然のごとく、国章に王冠という形が復することになった。

5 共和制国旗

1936年7月18日の軍事蜂起は、最初の2年間反政府勢力が共和国の国章を維持し、城壁の冠の国章もそのままだったが、国旗は昔の二色を復活させた。 今日まで、スペインの国旗は、国章が異なるデザインに由来するものそれ以外の変更は行われていない。

国章は1938年から1981年の間にカトリック両王の鷲の姿を誇り、1938年、1945年および1977年に様々なバリエーションを施している。

 

 

 

図16 フランコ総統時代のスペイン国旗 1938 年

1978年制定されたスペイン憲法 第4条 1項:「スペイン国旗は、赤、黄、赤の三本の水平縞地から成り、黄の縞地は、赤の縞地の二倍幅とする。」

と制定された。1981年10月5日に新しい国章の承認は現在のスペインの国を代表する旗印を形作る頂点に達したとされる

現スペイン国旗

 

 

 

 

 

3.現国旗につながる歴史的事実

 現国旗の起源は国王カルロス三世(1759 年‐1788 年)の治世に遡る。当時スペインには3つの旗印が共存していた。一つは国王旗スタンダード、二つは軍旗(陸上旗)、そして 3 つは海上旗。列挙諸国の多数は白色をベースに旗印として使用していたので、海上においては軍船との識別は困難であり、混乱を引き起こす問題が発生していた。その問題を

避けるべく、カルロス三世は海軍大臣アントニオ・バルデス・イ・バザンに海上旗に代わる国旗制定のプロジェクトを命じた。

コンクールの結果12の旗が候補に挙がり、その中から王は帯の形の種類が違う2つの旗(図13)を選んだ。

一つ目を海軍旗とし、二つ目を商船旗とし、1785 年 5 月 28 日付勅令を発布した。

カルロス四世(1788 年‐1808 年)の治世、1793 年 3 月 8 日付海軍一般軍令にて海軍基地、城塞、沿岸警備施設における血と金の旗の使用について発令され、王国旗として規定された。

対仏スペイン独立戦争中は、(1808 年‐1814 年)旗の規制がない無秩序な状態が起こり旗の乱立状況が発生した。

幾人かの水兵たちは陸上戦線にも加わった。そのため内陸部に初めて二色の旗印が掲げられることになった。

イサベル二世の治世(1833 年‐1868 年)、陸軍にも二色旗の使用が浸透していった。それはスペインの旗として統一する兆しでもあった。1843 年 10 月 13 日付勅令にて軍旗、スタンダード、その他旗印を血と金の旗に代えるべしと発布された。

その後、1867 年 3 月 17 日海軍における記章、旗、栄誉礼、礼等に関する軍令により、具体的な記述形式にて、軍艦旗、海軍工廠、海軍施設に関する規定を再びなされた。

サヴォイア家のアマデオ一世(1871 年‐1873 年)は国旗の紋章を尊重した。第一共和国制(1873 年‐1874 年)は暗紫色の帯を下部の赤色帯の代わりに変更する計画を持っていたが、結局実行されることはなかった。

アルフォンソ十二世の治世下(1874 年‐1885 年)、1878 年 12 月 10 日付発令は公布され、それは記章、旗、名誉礼、海軍礼に関するものであった。その第一条に国旗は 1867 年発令の文言に準ずるとするものであった。

8 スペイン国旗 1945 年

第二共和政(1931 年‐1939 年)において 1931 年 4 月 27 日、臨時政府は三色国旗の定める政令を公布した。

それは「同幅の三平行幅とし、上部に赤色、中央に黄色、下部に暗紫色を配する」というものであった(図15)。

スペイン内戦当初(1936 年‐1939 年)反政府軍の間で血と金の旗が復活された。1936 年 7 月 18 日武装蜂起の時には反乱軍内部で違った軍旗が乱立した。このような状況を避けるべく、国防委員会カバネラス将軍は 1936 年 8 月 29 日、一つの政令に署名した。それは伝統の国旗を復活させるもので、その単項に、スペイン国旗として 赤と黄の二色旗を復活させるべしとあった。

数年後、フランコ総統(1939 年‐1975 年)独裁時代に 1945 年 10 月 11 日付政令にて記章、旗に関する使用と形式を定める新しい規則が承認された。それは3つの限定条項すなわち、軍隊、軍艦、建物において、国旗の特徴を詳細に規定するものであった。

 

 

1975 年のフランコ総統の死後、ブルボン家のフアン・カルロス一世の王政復古とともに、この規則は

1977 年 1 月 21 日付勅令第 1511 号すなわち、旗、個人旗、その他記章の詳細規定についての勅令に取って代わった。

9 スペイン国旗 1977 年

現行の有効規範は 1978 年スペイン憲法にあり、第四条第一項において国旗を定めている。

図 20 現スペイン国旗(国章付き)

出所:http://www.lamoncloa.gob.es/espana/simbolosdelestado/Paginas/index.aspx
http://www.ejercito.mde.es/unidades/Madrid/ihycm/Actividades/Ciclos-Divulgativos/vexi-historia-band era.html

スペイン国旗の変遷