「スペイン人を黙らせるには」
スペイン人やラテン人は会話に興じるのが大好きである。例えば、5人で会話するとすれば、1人が話せる時間配分は、計算上5分の1のはずである。ところが、少数の例外を除き、日本人はそうはいかない。10分の1でも話ができれば、御の字と言えよう。では、スペイン人は、どのようにして、自分が話せる時間を確保するのであろうか?もちろん人にもよるが、私の友人は、「Cállate」(直訳すると、黙れ)と言って、周りを黙らせ、「私にも話させろ」と続ける。なるほどと感じたものであった。そう言えば、かなり前に、チリのサンテイアゴで開催された「スペイン・イベロアメリカ・サミット」で、ベネズエラの故チャべス大統領が、スペインのアスナル前首相を執拗に非難したことがあった。その時、たまりかねてスペインのフアン・カルロス国王は、「¿Porqué no te callas?」(何故君は黙らないのですか)と言ってチャべスを黙らせたことがあった。日本人の感覚から言うと、「黙れ」とはなかなか言えないが、ニュアンス的にはもっと柔らかく、「ちょっと黙ってくれない」程度である。したがって、スペイン人は特に気にするわけではないので、スペイン人を遮って話したい場合は、この用法を活用することをお勧めする。
「スペイン人の節約ぶり」
留学に行き、ホームステイ先で、最初に注意されるのは、電気や水に関することである。部屋に2つのライトをつけたり、ライトをつけたままで、寝てしまったりするとほぼ必ずと言っていいほど直ちに、あるいは翌朝に注意される。水も同様である。多量の水を使用すると注意される。もったいないをモットーとする日本人もびっくりするほどである。学生同士で旅行する場合も同様である。研修の最初の年に、アメリカ人、ペルー人、フランス人、スコットランド人と私の5人で、私の小さな車のシムカ1000に乗って、アンダルシアに旅行する機会があった。泊るところと言えば、最低水準のホスタルで、当時の値段で約200円くらいだったと思う。食事は訪問地にある大学を探し、その食堂でたらふく食べる。皆で飲むワインは持参した大瓶に各地のボデガ(酒屋)で満杯にしてもらって、回し飲みする等々。もちろん、割り勘である。お陰で、節約とはどういうことかが十分すぎるほど理解できた。
「声が悪くなった話」
スペイン式BARやイタリア式BARは日本でも人気を集めている。スペイン研修中には、頻繁にBARへ行ったものだ。元々声があまり良くなかったが、スペインで悪くなった。その理由を考えるとどうしてもBARに行きつく。BARは常に混んでおり、騒々しい。自分の希望するワイン(vino blanco, 白ワイン、vino tinto、赤ワイン)やつまみ(gambas a la plancha,エビの鉄板焼き champinión al ajillo、マッシュルームのガーリックいため boquerones fritos、イワシのフライ、tortilla española、スペイン・オムレツ等々)を注文するわけだが、相当の大声で注文しないと受け付けてもらえない。そこで注文が届いたのを確認できるまで、何度も大声で叫ぶことになる。このようなことを繰り返している内に声が悪くなったのである。嘘のような本当の話である。スペイン人や外国人の友人や日本からの出張者とはBAR巡りをよくやったものだ。楽しい思い出である。
「昼寝(シエスタ)とは」
近年では、徐々に昼寝(シエスタ)の習慣も減少しつつあるが、スペイン研修中は、シエスタを大いにエンジョイした。スペインは、当時2時頃から2時半から5時か5時半くらいまで昼休みであった。今のように交通事情が悪くなかったこともあり、結構な人が昼食をとるために、家に戻っていた。昼食後、30分から1時間くらい昼寝をし、また事務所に出かけるというパターンであった。私は、この習慣が好きであった。昼食の後、昼寝をするのだが、いつも2時間から3時間眠ってしまう。ある日、下宿のおばあさんか私に向かって、「あなたは病気ではないのか」と尋ねる。私は、「どうして」と聞き返すと、「昼寝はそんなに長時間取るものではない。せいぜい30分から1時間だ」と言われた。それ以降は、毎回目覚まし時計をかけ1時間で起きるようにした。確かに、2~3時間も昼寝をとると夜寝られなくなるものだ。下宿のおばあさんは正しかった。
日本から来た観光客は、昼の時間を有効に活用したいと考える。当時は、お土産屋さんの多くが、昼休みには閉まっていた。要は、スペイン人が、ゆっくり昼食を取っている時には、観光客もゆっくり時間をかけて食べなさいということである。
「フランコ総統を近くで見た話」
スペイン研修中の思い出の一つとして、当時のフランシスコ・フランコ総統夫妻をごく近くで見たことがある。時期は定かでないが、1969年の闘牛シーズン中に、マドリードのラス・ベンタス闘牛場で「フランコ総統杯」が出される闘牛が開催された。結構な値段であったが、思い切って購入したところ、フランコ総統と夫人のドーニャ・カルメン・ポロ・デ・フランコが座る貴賓席から10メートルくらい真下に私の席があった。まさかフランコ総統夫妻が臨席するとは思っていなかったが、大変幸運なことであった。フランコ総統はさすがにオーラがあり、カリスマ的であった。フランコ総統は独裁者で市民戦争に勝利した後、対立者を厳しく弾圧した人物であるが、一方では、スペインを第2次世界大戦から守り、スペイン経済を立て直した功績もある、その時には、闘牛場に来ていた観客は大きな拍手で迎えていたことを思い出す。大枚はたいて闘牛見物をしたのは正解であった。
「フランコ総統杯でレアルとバルサを見た話」
私は、いずれの国でも代表的なスポーツ、音楽、踊り等については必ず何回も見ることにしている。スペインで言えば、サッカー。フラメンコ、闘牛といったところである。イタリアで言えば、サッカーやオペラである。フラメンコについては、スペイン滞在中に何回も見に行ったし、セビリャに1年2か月滞在したので、タブラオでフラメンコを見たり、四月祭りで、セビリャ―ナの踊りをたびたび見る機会があった。闘牛については、どちらかというと好きで、マドリードやセビリャで相当多く見る機会があった。有名なセバスティアン・パロモ・リナーレス、エル・ビッティ、エスパルタコ、セサル・リンコンなども見ることができた。その中でも、一番感激するのはサッカーの試合である。リーガ・エスパニョーラの通常の試合も面白いが、レアル・マドリードとそのライバルのFCバルセロナ(バルサ)のダービー戦は最高である。マドリードのサンテイアゴ・ベルナベウ・スタジアムを満席にし、フアン同士が熱狂するのである。研修時代に思い切って、大枚はたいてその試合を見学した。今は国王杯という名称になっているが、当時、フランシスコ・フランコ総統の時代で、総統杯(Copa del Generalisimo)と呼ばれていた。1966年のワールドカップ・ロンドン大会以来、サッカーフアンになっていたが、この試合を見た時の感動は忘れられない。何故行きつけの散髪屋の主人が、サッカーの話しかしないのか、何故、スペイン人が、サッカーにこれだけ熱中するのかが、少しはわかるような気がした。フラメンコ、闘牛、サッカーについては、好き嫌いにかかわらず、最低3回くらいは、見学することをお勧めしたい。
「授業の理解度は、70~80%」
マドリード大学では、聴講生(alumno visitante)として、政治学部の5年生の「ラテンアメリカ研究」の4科目と文学部の2年生の「イスパノアメリカ文学史」の授業を取った。大学でスペイン語を専攻していたし、4年生の時に通訳案内業の資格も取得していたので、授業もほとんど理解できるだろうと考えていたが、とんでもない話で、先生の講義はほとんど理解できなかった。たぶん、当初は20~30%くらいだったと思う。その理由は、スペイン人の話すスピードはものすごく速く、まるで機関銃のような話しぶりなのだ。大学時代のスペイン人の先生やラテンアメリカの人々はもっとゆっくり話してくれたが、スペイン人や中南米からの留学生を対象に講義するのであるから、全く容赦せず、早口でしゃべりまくる。それでも我慢して講義を聴いていると徐々にわかるようになってきた。帰国する前には、70~80%くらいまで理解できるようになった。
「私の愛車シムカ1000」
スペイン研修時代の日当宿泊費は、月額330ドルで学生の身分としては、十分すぎる収入であった。倹約すると100ドル(36,000円)強で生活ができた。当時三井物産の研修生が帰国するというので、彼の自家用車である「シムカ1000」を400ドルで購入した。米国のクライスラー社の車でフランス製だと記憶している。私にとって初めての自家用車であり、免許証も1年半前に取ったこともあり、当初は自動車の走っていない郊外に出かけ運転の練習をしたものであった。運転中に死にかけたこともあった。車の効用はすごいもので、大学への通勤、土曜日、日曜日の郊外のドライブ等行動範囲が一気に広がる。また大学の休暇を利用して、日本人や外国人とポルトガル旅行やアンダルシア旅行など簡単に組織できる。ほぼ9カ月運転した頃に帰国となり、愛車を後任の研修生である同期の堀静雄さんに250ドルで売却した。堀さんは1年間運転し、外国人に250ドルで販売したという。その交渉力たるや驚くべき。シムカ1000は良く働いてくれた。