執筆者:桜井悌司(NPO法人イスパJP)

 

サラリーマン経験者であれば、誰でも上司から、「もっと詰めろ」とか「そんな詰め甘でどうするのだ」というようなことを言われた経験があるに違いない。役所でも、団体でも企業でも同じで、詰め詰めマンがたくさんいる。どこの国でも、物事を進める場合、詰めておかないと困るのは当然である。しかし、最近思うのは、「詰め」の度合いが、国によって異なるのではないかという疑問である。日本人は、その中でも最も「詰め」に力点を置く、あるいは「詰め」が好きな国民ではないかという気がする。

 

では、どうしてそうなのか?ここからは、私の独断と偏見を承知の上で、比較の観点から、意見を述べたい。まず、日本人は、チームや組織で動く国民であり、個人個人がそれほど強くなく、明確で自分固有の意見を持つ人が少ない。やや厳しく言うと、自分に対して自信を持っている人が少ないことがあげられる。さらに、アラブやラテンの人々と比較して、日本人は残念ながら「即興力」に欠ける。要するに何でもしっかり準備しないと心配でしょうがない国民なのだ。以上の意見はメリットにもなるし、デメリットにもなる。また、大臣、高級官僚、企業のトップにしても同様で、国会、記者会見などでも部下が用意した想定問答集やメモに頼らないでうまくやってのける人は少ない。中間管理職もトップに恥をかかせないために、またトップへの忖度もあり、膨大な時間をかけて、詰め詰めのプロジェクトやイベントを作り上げる。想定問答集造り等もその一環で、最大限の時間とエネルギーが投入される。必ずしも、想定問答集で用意した質問をしてくれるとは限らないが、しっかり準備するのである。受験時に出題されそうな問題を想定するより当たる確率は高いが、壮大な時間のロスと言えよう。

 

例えば、同じことをブラジルやラテンアメリカでやるとどうなるのであろうか? プロジェクトやイベントをラテンの人々と一緒に組織すると、本社から、「やいのやいの」「もっと詰めろ」と言ってくる。仕方なく、相手側に伝えると、元々彼らは、そんな些細なことは詰める必要が無いと考えており、「何故そんなことを聞いてくるのか」とか「そのようなことは、我々に任せておけば良い」というような返事が返って来る。その旨、本社に伝えると、本社は怒り出して、「ラテンかぶれ」になったのかとか「ブラキチ風」にハマったのかとか言ってくる。そこで、もう一度詰めようとすると、カンタ-パートは真面目に相手にしてくれない。そのため、詰まっていないのに詰まったと連絡するか、嘘をつくしかないのである。結果的には、「詰めれば詰めるほど甘くなる」のである。したがって、本社にも現地サイドのことが理解できるようなキャッチャーが必要なのだ。

 

もう少し具体的に話をしよう。かなり昔だが、1996年にサンパウロのイビラプエラ公園内のビエンナーレ展示場で、「サンパウロ日本産業見本市」を開催した。開会式に当時のカルドーゾ大統領も臨席されたのであるが、セレモニー直前に大統領府の広報責任者が来て、詰めに詰めたセレモニーの手順や大統領が登壇する挨拶台の新規製作等の変更を余儀なくされたのである。とは言え、ラテンの常、ブラジル人の常として、最後には見事につじつまを合わせてくれたのは言うまでもない。セレモニーは大成功であった。

 

1992年のセビリャ万博の日本館のオープニング式典でも面白いことがあった。当日、雨が降ったら、どこで式典を行うのかという問題であった。博覧会公社に問い合わせると、オープニングに当たる4月20日は過去50年間にわたり、一度も雨が降ったことはないので、心配は要らないと言う。そのむね本部に連絡すると、例によって万が一雨が降ったらどうするのかと問い詰めて来る。博覧会公社の責任者は、雨は降らないと確信しているので、いくら当方が主張しても全く相手にしてもらえない。開会式の当日は、まさに「スペイン晴れ」の絶好の日和で気温もぐんぐん上昇してきた。確か5人だったと思うが、通訳付きでスピーチし、延々とセレモニーが続いたので、2人の熱中症が出たのもほろ苦い思い出である。。

 

日本の皇室や政府の要人に対する警備でも、恐ろしいほど周到な準備をする。まさに分単位、秒単位のロジステイック表をつくるのである。そのことに少しでも異議をはさむと、警備の責任者は、「もし、万一事故が起こったら、だれが責任をとるのか」と詰め寄って来る。その結果、誰も異議をはさめなくなる。

 

話は変わるが、フランチェスコ・アルベローニ先生という私の大好きなイタリアの社会学者がいる。多くの著作を発表し、日本語でも訳されているが、彼の言葉の中で、強力に印象付けられている言葉がある。彼は言う。「独裁者になりたければ、どうすれば良いか?答えは2つ。1つは小心であること、もう一つは細部にこだわること」である。小心であるということは、自分の立場を脅かす部下が出てきた時は、たちどころに排除する。お隣の国の独裁者や共産主義の国々の例を見れば、納得できよう。寛大であっては、自分が失脚する羽目に陥るからである。細部にこだわると部下が、戦々恐々、ピリピリし、ボスに報告する際も周到な準備をするようになる。部下はその部下に対して、細部にこだわるように指示する。その結果、お互いに貴重な時間を奪い合うことになり、クリエイテイブな発想、意欲的なイニシアテイブが出て来る時間がなくなる。独裁者は、誰もがなれるものではないが、細部にこだわる上司は周りを見ればたくさんいる。詰めることは大いに結構であるが、「詰め詰めごっこ」に時間を取られることの無いようにしたいものだ。日本のリーダー、中間管理職には大いに自信をつけてもらいたい。