執筆者:西岡勝樹(日本旗章学協会会員)
はじめに
スペイン国章に見る不思議を見ていきたい。
根拠法
1.国章に関する法律および勅令
①1981年10月5日付法律33号(1981年10月19日公布官報250号) スペイン国章(Ley 33/1981, de 5 de octubre (BOE nº 250, de 19 de octubre de 1981). Escudo de España) 第一条 スペイン国章は四分割と下部三角部を持つ。
第一分割部には、赤の下地に黄色の城、尖塔を持つ、門、窓は青色で彩色、城の積石は黒色線で描く。
第二分割部に、下地は銀色、立ち上がるライオン、紫色、攻撃の態勢、その舌、爪は赤色、金色の王冠を被る。
第三分割部に、金色の下地に赤色の四本の縦棒、
第四分割部に、赤い下地に金色の鎖、鎖を十字に、斜め十字に、外枠に繋げる。鎖の真ん中にその色を帯びたエメラルドを中央に置く。
盾下部の三角部に、下地は銀色、一個の赤い、切り取られて、自然のままの割れたザクロ、緑色の二枚の葉を付けている。
盾は両側に銀色の柱を添えられている。柱の基礎、柱頭は金色。土台に青と銀色の波型を施す。
右側(向かって左)に帝冠を、左側(向かって右)に王冠を置く。両冠は金色。そして柱には赤い色の布が巻かれており、金色の文字、右側(向かって左)に“もっと”、左側(向かって右)に“先へ”とある。
盾上部、王冠、閉鎖型、金色の輪に、貴重な宝石をはめ込む、8つのアカンサスの葉の装飾、見えるのは5つ、真珠を内挿され、その葉から真珠の飾りがそれぞれ出ている。金色の半子午線と赤道を伴った青い地球、その上に金色の十字を置く。王冠は赤い布で裏張りされている。
第二条 スペイン国章は、前条の記載の通りであるが、青いエスカッション(盾の中の小盾)を伴う。
それは金色の3つのユリ、上二つ、下一つの形、赤い縁取り、君臨する王家特有の紋章。
第三条 本法律により規定されたスペイン国章は勅令により公式雛型として公布される。
②1981年12月18日付勅令2964号、スペイン国章の公式モデルの公布に関する勅令
(Real Decreto 2964/1981, de 18 de diciembre)
第一条 1981年10月5日付法律第33号の第三条の条項に従って、スペイン国章の雛型が発布された、それは下記の正統公式図面となる。
第二条 スペイン国章は:
一項、スペイン国章は以下の国旗に現れるものとする:国家における憲法上の機関において屋外、屋内に掲揚される国旗、すなわち;中央行政府、自治政府、県、及び市町村の庁舎・建物に掲揚する国旗;軍隊における関連公共建物、軍師団、軍船、軍機その他国家警備隊所属の施設に掲揚する国旗、国旗掲揚の権利を伴う両軍の部隊も同様;大使館、領事館関連施設、その長の住居及び使用する公用車両に掲揚する場合の国旗。
第三条 スペイン国章は国旗の縦幅の 5 分の 2 の高さとする。国旗両面の黄色帯の中央に配するものとする。
但し、スペイン国旗の横幅が縦幅の 2 分の3の比率の場合には、国章は国旗ポール側より国旗の縦幅の 2 分の 1 のところに配するものとする。
3 スペイン国旗 国章付 ③1982年9月3日付勅令第2267号(同年9月15日付官報第221号)
(Real Decreto 2267/1982, de 3 de septiembre (BOE nº 221, de 15 de septiembre) 第一条 スペイン国章の色は国際規格 CIELAB のシステムにて下記となる。
Color 紋章学 呼称 | Denominación color 色名 | Tono H en º | Croma C | Claridad L |
Sinople | Verde bandera 緑 | 165 | 41 | 31 |
Azur | Azul bandera 青 | 270 | 35 | 26 |
Oro | Oro bandera 金・黄 | 90 | 37 | 70 |
Plata | Plata bandera 銀・白 | 255 | 3 | 78 |
Sable | Negro bandera 黒 | – | 0 | 10 |
Gules | Rojo bandera 赤 | 35 | 70 | 37 |
Púrpura | Púrpura bandera 紫 | 0 | 52 | 50 |
図4 国際規格 CIELAB によるスペイン国章の色の規定第二条 国際規格 CIELAB における同システム CIE-1931 システムにて下記となる:
Color 紋章学 呼称 | Denominación color 色名 | Y | x | y |
Sinople | Verde bandera 緑 | 6.7 | 0.223 | 0.438 |
Azur | Azul bandera 青 | 4.7 | 0.168 | 0.171 |
Oro | Oro bandera 金・黄 | 40.7 | 0.395 | 0.403 |
Plata | Plata bandera 銀・白 | 53.2 | 0.303 | 0.311 |
Sable | Negro bandera 黒 | 1.1 | 0.31 | 0.316 |
Gules | Rojo bandera 赤 | 9.5 | 0.614 | 0.32 |
Púrpura | Púrpura bandera 紫 | 18.42 | 0.426 | 0.263 |
図5 国際規格 CIE-1931 によるスペイン国章の色の規定
④1999年9月27日付令(同年9月28日付官報232号)国家行政機関による手引書 国章の色について:
Negro. | Verde: | Pantone 3415. | |
Rojo: | Pantone 186. | Azul: | Pantone 2935. |
Plata: | Pantone 877. | Púrpura: | Pantone 218. |
Oro: | Pantone 872. | Granada: | Pantone 1345. |
(Orden de 27 de septiembre de 1999 (BOE nº 232, de 28 de septiembre)
図6 国際規格 Pantone システムによるスペイン国章の色の規定
2.スペイン国章の歴史とその変遷
現スペイン国章は1981年10月5日付法律第33号にて定義された。すなわち憲法の承認後ほぼ3年で定義されているため、一般に行われているように、それを「憲法上の国章」と呼ぶことはほとんどありません。 確かに、この基本的な文章には含まれていないだけでなく、憲法公布の当初の 3 年間は、憲法におけるスペインは、いわゆる
「フランコ主義国章」、つまり、鷲の国章によって表されていたのである。
今日のスペインを印象付ける国章の雛型は9世紀に亘る長い歴史を持つ伝統的な構成要素を表す様々な形式の選択の結果であり、さらに、昔の時代を関連付けるルーツを持っている。それらはスペインの歴史を写し、その歴史そのものでもある。 スペインの国章を構成するエンブレムの外観は西ヨーロッパにおける一般的な現象に対応している。今日我々が紋章学と呼ぶ12世紀に認められたシステムによってである。しかし我々は今日スペインと呼ぶその土地とその土地に住む人々を特徴付けるシンボリックな要素を見つける為に、遠い過去の時代に身をゆだねることができるのである。
キリスト教初期の時代に、我々の土地に関する最初の象徴的な印が発見されている。アドリアヌス帝のいくつかの貨幣の裏側に、イスパニア、それを取り巻く伝説によれば、カルペ(ジブラルタル)の岩の上にオリーブの枝を持った乙女の姿を表す。その足元には一羽のうさぎ、それは古代からこの動物が我々の動物相の特徴として考えられていたことを表している。また、イベリアの乗り手で知られる硬貨、それはローマ以前の民族やローマ化された民族の多くの貨幣に現れる。
1940年、1953年発行の10セント、5セント硬貨にも模倣された。
・「スペインという地名の語源はスペイン語でスペインを意味するエスパーニャ (Espana) から来 るが、これはラテン語のヒスパニア (Hispania) に由来し、更に遡るとフヱニキア語のスパーン (Span) になると言われている。スパーンの意味は、「ウサギの国」「西北の地」「遠隔の 地」などの説がある。」出所:田林洋一、「スペイン語の起源と発達についての覚え書」、言語センター広報 Language Studies 第 21 号(2013. 1)小樽商科大学言語センター、p50
西ゴート時代における、独自エンブレムのある特徴付けて硬貨に現れる記章は階段状の形をした台の上に外側に広がる形をした台形の腕の十字架である。この同じ十字架はのちに旗十と共に使われた同じ形で船のマストの先に掲げられた王立民兵軍の旗印として使われたものと思われる。この同じエンブレムはムスリムと戦ったアストリアスの王たちによってもつ掲げられた。それは西ゴート王国の後継を継ぐものと考えられたからである。アストリアのシンボルとしての
十字架の重要性は今日まで続いてきた。自治体はエンブレムとしてこの時代から始まった勝利の十字架の象徴を使用している。
アストリアス王国の十字架の使用はイベリア半島において形造られたレジスタンスの中心的な核として広がっていった。
特にナバラ王国とアラゴン王国に。それは早い時期からレコンキスタ再征服を意識する十字軍の性格を再強化するものであったのだろう。しかしながら、冒頭で指摘した様に、12世紀までヒスパニア王国を性格付ける紋章的なエンブレムは現れなかった。
主なヒスパニア系王国の紋章は12世紀半ばにほぼ同時に出現した。
レオン王国では王国と同名の動物が前世紀より現れてはいたが、アルフォンソ7世とその後継者フェルナンド2世は
明らかに紋章的な性格を認めている。レオン王国国章は“parlantes”(自らの姿を紋章の形にすること、『語りの紋章』)すなわち、自らの名前(Leon)を同じ名を持つ姿形を盾に表現したもの。王国の名ではあるが、元はその首都の名前から派生したものであるが、この動物とは何ら関係がないのである、つまりローマ時代の第 7 軍団ゲミナが当地に置かれたが、
その軍団“legio” (legión)がなまって Leon となった。
カスティ‐リャ王国では同時期にアルフォンソ8世が初めて“parlantes”の国章つまり、城の紋章を使った。1198年、彼の相続人であったドニャベレンゲーラがレオン王国国王アルフォンソ9世と結婚し、1230年二人の相続人として
フェルナンド三世聖王が両国を融合し、普遍的な紋章に重要な革新をもたらした。四分割盾の創作、つまり盾を四分割し、交互に両国の紋章を配することにした。
これと並行して、アラゴンではラモン・ベレンゲル四世(1131年‐1162年)が金地に赤い縞の紋章を使い始めた。
縞の数はその表現によって数種あるが、15世紀初頭まではその数ははっきり四本とは決まっていなかったようだ。
この紋章にまつわる伝説はとくに有名である。フランス王が当時配下であったカタルーニャ伯ギフレ毛むくじゃら伯の傷の血を指に染め、伯の金の盾に彼の指を滑らせ、四本の指の跡を残した。これがすなわち 四本の縞となった。
しかしながら、この伝説は歴史的な根拠はないとされる。
その後、アラゴン家の分家がシチリア王国に渡った。新たな四分割盾を採用した。十字に代えて二本の線を斜めに組み合わせて四つに分割した盾であった。この斜め四分割の盾にはホーヘンシュタルフェン家の白色の地に黒の鷲とアラゴンの四本縞のを交互に組み合わせたものであった。1409年マルティン一世はアラゴンとシチリアを再統合し、un partido の用法を用いて、国章を縦に二分し、盾それぞれの半部分にそれぞれの紋章(図11)を配した。
ナバラ王国に関しても、同様に1150年ごろに“ブロッカ”と呼ぶ放射状の配置された棒状の金属で補強された盾を諸王たちが持っているシール(封印)が現れた。時が経ち実用的な機能の記憶が薄れ、その棒と釘は鎖の環と混同されるに至った。これはナバラ王サンチョ剛勇王が1212年ナバスデトロッサの戦いでモーロ人の王の宿営を囲んでいた鎖を破ったという伝説との混同によるものである。
アラゴンのフェルナンドとカスティ‐リャのイザベルの結婚とともに、1479年、両王となり紋章はそれぞれの四分割紋章を再度四分割の各部にはめ込む形にまとめられた(図13)。すなわち、第一分割部と第四分割部にカスティ‐リャ・レオンの四分割紋章を、第二分割部と第三分割部にアラゴン・シチリアの四分割紋章をはめ込んだ。その後グラナダ陥落の後に、この紋章の下部にグラナダ王国紋章を追加した。グラナダと言う同名の果物を配したことで、
Parlante(語りの紋章)という紋章用法の新しい形式となった。この紋章は両王の娘でありフアナ狂女王にも採用された。
彼女(フアナ狂女王)の夫、フェリッペ美公はオーストリアの大司教であり、ブルゴーニュ公であった。次の紋章分割部分を紋章として誇っていた。すなわち オーストリア(赤地に白の一本帯)、現ブルゴーニュ(青地に金のユリを配し、縁取りは赤と白を交互に配置する)、古ブルゴーニュ(青と黄の斜め帯、縁取りは赤)ブラバンテ
(黒の下地に金のライオン)、そして盾中央にフランドル(金の下地に黒いライオン)を配する(図14)。
スペイン王カルロス一世、神聖ローマ皇帝カール五世は両親から受け継いだ紋章を結合した。すなわち盾の上半分を母フアナの紋章を、下半分を父フェリッペの紋章を、そして、神聖ローマ帝国の双頭鷲を添え、両側にヘラクレスの柱を配した。その銘文は大航海時代の拡大のシンボルであった “もっと先へ”とした(図15)。フェリッペ二世は神聖ローマ皇帝位は受け継がなかったときに、紋章に柱と銘文も、同様に鷲も外した。しかし 彼の最初の結婚から生じる
ポルトガル国王となった時にその国章を追加した(図15)。オーストリア朝の諸王たちはこの紋章を使い続けた。
1700 年の後継者が無くカルロス二世が死亡したことで、スペイン王は彼のいとこであったアンジュ―公、フランス国王ルイ十四世の孫、ブルボン家のフィリップに渡った。フェリッペ五世として王位についた。彼は紋章からポルトガルの
国章を取り除いた。なぜならポルトガルは 1640 年に独立を回復したからであった。盾の下部にフランドルとチロルの紋章を付け加えた。そして盾中央にブルボン・アンジュー伯の紋章、青い下地に3つのユリ、赤の縁取りを施したものであった(図16)。
ルイス一世もフェルナンド六世の治世下は紋章の変化は想定されなかった。
カルロス三世はフェリッペ四世の二番目の結婚による子で、フェルナンド六世の兄弟であった。彼の母から受け継いだ紋章を付け加えた。ファルネーゼ家・パルマ公国(金の下地に六つの青いユリ)とメディチ家・トスカナ公国
(金の下地に五つの赤い円、その上部に青い下地の円の中に金の 3 つのユリ)。これらを盾の両側に配置した。そして、カスティ―リャス・レオンとグラナダの四分割紋章を盾中央部に移動させ、その中央部にはブルボン・アンジュ―伯紋章を配した。
次に続く諸王カルロス四世、フェルナンド七世およびイザベル二世は王の紋章において変更を加えなかったのであるが、ナポレオンによって王位についたホセ一世の一時的な治世下で、興味深い変革があったが、それはこの王(よそ者王)は盾を六分割にして、カスティ‐リャ、レオン、アラゴン、ナバラ(ナバラ王国以外で初めて王の紋章に現れた最初)、グラナダ、そしてインディアス、これはヘラクレスの柱の中に二つの陸半球を置いたもの。
盾中央に皇帝の紋章、すなわち青い下地に金の鷲を配した。
イザベル二世を打ち破った 1868 年の革命の後、暫定政府は現国章の基礎となる新しい国章を制定した。それは分割部にカスティ‐リャ、レオン、アラゴン、ナバラとグラナダだけが残され、簡素化されたもので、ヘラクルスの柱も復活した。
しかし 王冠は塔を持った城壁の形の冠型に取って代わった。倒した王家独自のユリの花の盾は取り除かれた。
サヴォヤ家のアマデオが王位につくと、王冠が復活し、盾中央にサヴォヤ家の赤い下地に白い十字架の紋章が配された。
1873 年 2 月 11 日共和国政府(第一共和制)はサヴォヤ家の紋章と王冠を取り除いただけでその他変更することはなかった。新しい政治体制は新しいシンボルを制定する物理的な時間がなかったからでもある。アルフォンソ十二世が王政復古で王位についた時当然ながら王冠とブルボン朝の盾の中にユリの花が復活した。
第二共和政は 1868 年制定の国章を復活させた。そしてこの国章を新しい国旗、赤、黄、暗紫の三色国旗の中央に配した。
1936 年反乱軍は三色国旗の共和制に対し、赤と黄の旗を掲げた。
しかし 1938 年までは政府と同じ国章を維持していた。そして 2 月 2 日の政令で新しい国章が現れた。
これはカトリック両王の紋章を基礎にしたもので、ヨハネの鷲、くびき、矢、しかし、シシリアをナバラに取り替えた。
これはフランコ独裁体制を代表する紋章であり、図案においては数か所の変更は施されたが、基本は四分割盾であり、そのぞれの四分割部分を重複させただけの単純な形となっている。と同時に新しいモットー『一つにして、偉大で、自由な』が目新しい。
民主主義の到来と、憲法の制定が即座に国家のシンボルを変更をするものではない。しかし、憲法では国旗についてだけその記述は行われた。そして新しい国章の規定は 1981 年 10 月 5 日の法律まで待たなければならなかった。これは基本的には 1868 年の臨時政府が採択した形を基本としていた。
しかし、城壁を王冠に代え、二つの王冠をそれそれの柱に乗せて、国章中央にはブルボン・アンジュ―家の盾を配し、王政復古を表している。これらはすべて民主主義スペインを象徴するエンブレムである。
3.現国章につながる歴史的事実 アンティークコインに刻まれる王たちの紋章
アウストリア朝:初期(1504 年‐1506 年)ブルゴーニュ―、フランデス、ブラバンテ、チロルの紋章が組み込まれた。スペイン国章における紋章成立のプロセスは次の通りそれぞれの王朝を経たものであることが知られている。
トラスタマラ朝:カトリック両王(1469 年‐1504 年)の紋章はカスティ‐リャ・レオン王国及びアラゴン王国の紋章にて形造られており、グラナダ王国征服後はこの王国の紋章も付け加えられた。
カルロス5世(1世)は帝冠を紋章に上部に配し、Plus Ultra の銘をヘラクルスの柱に巻きつけ、金羊毛勲章(トワゾン・ドール)に盾を填めた。フェリッペ二世、フェリッペ三世、フェリッペ四世、カルロス二世、1556 年から 1700 年まで続く治世では同じ紋章が使用された、但し帝冠を除いたものであった。1580 年フェリッペ二世はポルトガル王の国章を付け加えた。
ブルボン・アンジュ-朝:フェリッペ五世(1700 年‐1759 年)の紋章は赤い縁取りのブルボン家のユリの紋章を組みんだ。そして金羊毛の勲章も使い続けて、さらに聖霊の勲章の追加された。カルロス三世(1759 年-1788 年)パルマ公国、トスカナ公国の紋章を追加し、聖霊勲章を自らの名を冠した勲章に代えた。
カルロス四世も父王と同じものを使用した。
ボナパルト朝:ホセ一世は紋章を六分割紋章とした。第一分割部、カスティーリャ、第二、レオン、第三、アラゴン、第四、ナバラ、第五、グラナダ、第六、新世界これはヘラクレスの柱を表す。
そしてボナパルト家の紋章を付け加えた。
ブルボン・アンジュ―朝:フェルナンド七世は先代の紋章を復活させた。その娘イザベル二世も同じであった。
臨時政府(1868-1870):歴史王立アカデミーの判断で、下記の紋章部分にてスペイン国章が統一された。
第一にカスティーリャ、第二にレオン、第三にアラゴン、第四にナバラ、第五、紋章下にグラナダを配し、上部に城壁冠、エスカッション(小盾)にあったブルボン・アンジュ―家の紋章は削除、ヘラクレスの柱、但し、王冠は載せない、が追加された。
サヴォヤ朝(1870-1873):先代紋章を引き継ぐが、自らの王家のエスカッションを追加した。
第一共和政(1873-1874):サヴォ朝の紋章を削除し、城壁冠を復活させた。
ブルボン・アンジュー朝:アルフォンソ十二世、アルフォンソ十三世は王冠を復活させ、王家の赤の縁取りのユリの紋章を追加させ、金羊毛騎士団勲章を周りに配した。
第二共和政(1936-1939):障壁冠を復活、ブルボン・アンジュ―紋章の削除、第一共和制の国章を利用。
フランコ総統独裁 (1938-1975):カトリック両王時代の紋章によく似た紋章を使用、アラゴン・シシリアをナバラの紋章に入れ替えたもの。ヘラクレスの柱を加え、“一つにして、偉大な、自由に”標語を添えた。
移行期:1977年1月21日付勅令1511号、国旗、章、その他記章についての規則にて国章の標語の位置を変更される。主な変更点はヨハネの鷲が、困惑しているような様、今にも飛び立つ姿を表し、柱は翼の下に置かれ、足でヘラクレスの柱に泊まっている。柱は鷲の外側にあった。
現国章:この国章は1977年から 現在の国章に替わる1981年まで有効であった。
現国章は1981年10月5日付法律33号にてスペイン国章は制定された。
出所:https://www.coleccionescaballero.com/Historia_moneda.php#11
4.スペイン国章にまつわるエピソード
4-1.ヨハネの鷹
4-2。ヘラクレスの柱
4-3.帝冠と王冠