「2日目」
翌20日(水)、休養組の2人は、ゆっくりポルトマリンを見学することができた。ポルトマリンでは、午前中一杯、霧に覆われた美しいミーニョ川を見たり、民営アルべルゲを見学させてもらったりした。ステッキを使うと歩きやすいということで8ユーロのステッキを2本購入した。ポルトマリンには、ホテルが2つ、ペンション等が10、アルべルゲが14あることが分かった。どんどん増えているという。まさに巡礼で潤っている町である。リュック運搬料金が3ユーロと安いのは、ガリシア州政府が決めているに違いないと考えたのでホテル・ビジャ・ハルディンのオーナーに聞いてみた。彼によると、業者間の競争の結果であると言う。ポルトマリンのような小さな町でもリュック運搬業者が5つあり、お互いに競争しているということであった。ホテルにタクシーを呼んでもらい料金を聞くと、大体、1キロメートル当たり1ユーロで、次のパラス・デ・レイまで28ユーロである。2人で行くところが、スペイン人の男性の巡礼が足を痛め、もう1人のスペイン人女性巡礼も歩けないということで4人が同乗し、1人7ユーロでパラスまで向かった。途中で仲間を追い越して行ったが、何か申し訳ない感じであった。ポルトマリンからパラス・デ・レイまでは国道沿いの道が多かった。
ポルトマリンで、パラス・デ・レイでは、24時間の医療診察があるという情報を聞いたので、中谷さんに伝えたところ、是非とも行きたいと言う。そこでパラスのペンシオンにチェックインした後、医療センター(Centro Médico de Galicia)に出かけた。中谷さんがパスポートを忘れたため、30分ばかり遅れたが、それでも待ち時間を含め、2時間後に終了した。診察代は無料であった。親切なドクターで、昼の時間帯なので、薬局が閉まっているからと、痛み止めの薬もくれた。診察では、予想通り膝や足の酷使ということであった。巡礼関係の本をみると診察料は無料ということあったが、本当であることを確認できた。診察を終了し、2人でビールを飲みながら昼食をとっていると、旧知のブラジル人のアフリカ系の太った女性がおり、足を引きずっていたので、1日分の痛み止めを分けてあげた。ペンシオンに戻ると他の6名も既に到着しており、夜は全員で、名物の蛸料理等を賞味した。
「3日目」
21日(木)は、パラスからアルスアまでの28~29キロであった。前日購入した水や食料で朝食を済ませ、いつものように午前6時に出発した。前日、足を休めたこともあり、なんとか歩くことができた。ポルトマリンで購入したステッキや重いリュックを3ユーロで運搬することにしたことが効を奏したのである。アルスアに到着し、予約したCASA LUCASの場所を確かめると、巡礼道から8キロはずれたところにあることがわかった。この宿舎は、CASA RURALと呼ばれ、必ずしも巡礼道とは関係なく、田舎の静かな民宿のようなものだとわかった。タクシー2台に便乗し、宿舎に到着した。宿舎のオーナーのルーカス氏は、アルスアから電話を待っていたという。電話があればすぐに迎えに行くことになっているということであった。湖畔の美しい場所に位置し、周りには何もないところであった。全員驚いたが、雰囲気もがらりと変化したこともあり、田舎の宿に宿泊できることを喜んだ。洗濯をしたり、ゆっくり休養することができた。ルーカス氏は大変親切な人物で、明日早朝の出発のためにアルスアまで買い物に連れて行ってくれると言う。グループの代表者が街まで買い物に出かけた。夕食は、15ユーロで、チキン料理を中心とした家庭料理で大変美味であった。
「4日目」
22日(金)は、アルスアからラバコージャの29キロの予定であった。ルーカス氏は午前6時に2回に分けて、我々を巡礼道まで自家用車で送ってくれた。藤津さんは山登りのベテランであるため、巡礼道での計画を担当した。前日の夜にコースを説明し、どこで休養をとるかを決定し、みんなに説明する。早朝、まだ暗いうちにできるだけ距離を稼ぐという方法で通常、5~6キロ時点の村のカフェテリアを見つけ、そこで待ち合わせ、コーヒーを飲み、また出発するというやり方である。このコースで2つのトラブルが生じた。1つは、私が予約した宿舎は、ラバコージャではなく、10キロ手前のオ・ピノという町で、ペドロウソの近くにあり、かつアルスアと同様、CASA CALVOというCASA RURALであったことである。前日と同様の間違いである。当初の案では、この日ラバコージャまで進めば、翌日は、サンテイアゴまで10キロで午前中早くにサンテイアゴに到着できるので、大聖堂のミサに参加したり、巡礼証明書も午前中に取得できるという計画であった。CASA CALVOもオ・ピノから3キロ離れたところにあるという。ペドロウソに入ったところに、観光局があり、そこで集まった7名にその旨説明し、CASA CALVOに電話し、迎えに来てもらうことにした。そのまま、宿舎に出かけても良かったが、近くに何もない所なので、昼食しながらどうすべきかを考えることになった。第2のトラブルは、先頭を歩いていた藤津さんが行方不明になったことである。ペドロウソに入り、2つ目のカフェテリアで集合するという計画であったが、後で判明したところによれば、藤津さんはペドロウソを越えてどんどん先に行ったとのことであった。昼食後、CASA CALVOのオーナーの娘のマリアさんに依頼し、一度ペドロウソの街に送ってもらい、町の見学とスーパーでの買い物をすることにした。その後、町のホタテ教会を見て、タクシーで宿舎に行こうということになったが、小さな町ゆえになかなかタクシーがつかまらない。その時、偶然、町の警察署に入って行く藤津さんを見つけたのである。まさに奇跡的な出来事であった。警察にお願いし、CASA CALVOのマリアさんに電話し、町まで迎えに来てもらうことになった。宿舎は、静かそのもので周りには全く何もないところであった。夕食は、オーナーの奥さんと息子さんが担当し、20ユーロと高めであったがここでもおいしい夕食を堪能することができた。翌日はマリアさんに無理をお願いし、朝6時に巡礼道まで連れて行ってもらうことになった。2回にわたるCASA RURALでの滞在は、メンバーによると貴重な経験で気分転換を図ることができたという評価であった。
「最終5日目」
23日(土)は、最後の歩行日で、ペドロウソからサンテイアゴ・デ・コンポステラまでの20キロである。前日までの疲労と足膝の痛みにも関わらず、最後の20キロとあって、全員元気が出てきた。6時にマリアさんが迎えに来てくれ、2回に分けて巡礼道まで送り届けてくれた。巡礼者も巡礼最終日とあって、いつもより明るく、Buen camino(良い巡礼を)と声をかけながら、進んで行った。サンテイアゴまであと10キロの地点にMonte de Gozo(歓喜の丘)がある。今はビルや森林で見えなくなっているが、当時はその丘に登れば、サンテイアゴ大聖堂が見え、長い巡礼の苦労が報われたということで歓喜の声をあげた場所である。そこには、大きなモニュメントがある。そこからサンテイアゴの新市街を通り、カテドラルまで進むのだが、かなり遠く感じたものだった。すべて時間が解決するもので、ようやくカテドラルまで12時頃にたどり着いた。ミサが始まる時間であったが、ボタフメイロの儀式は日曜日だけでないことがわかったので、まず最初に、巡礼証明書をもらうための事務所に出かけた。沢山の巡礼者が列をなしており、これはずいぶん時間がかかることが予想されたが、紳士然とした係の人が、「あなた方はグループですか?どこからですか?」と声をかけてきた。「日本から8人のグループです。」と回答すると、用紙に名前、国、出発地、巡礼の目的等を書かされ、30分後に戻って来るようにとのことであった。ホテル・コンポステラにチェックインし、30分後に巡礼証明発行事務所に戻ると我々の「巡礼証明書」ができていた。その日の昼食は、SIXTOというレストランで、全員が無事、巡礼を達成した喜びを分かち合った。
サンテイアゴは、カテドラルを始め、沢山の教会や歴史的遺産があり、堂々とした都市である。カテドラルの前のオブラドイロ広場には、巡礼達成を喜び、感激する巡礼者であふれていた。広場に寝転がって、つらかった巡礼のことを思い出していたのであろう。
広場から出るサンテイアゴ市内観光バスは蒸気機関の形をしており、市内1州を1時間程度6ユーロで案内してくれる。まさにお勧めである。午後の自由時間に、16世紀に建設されたサンフランシスコ修道院に立ち寄ったところ、今年がアッシジのサンフランシスコの生誕400周年の記念の年に当たるということで、訪問者に証明書を発行していたので、私も頂戴することになった。
夜は、今まで節約してきたので、1人当たり50ユーロくらいの豪華な食事をしようと、海産物やパエジャ等たくさん注文したが、30ユーロで収まった。全員、巡礼達成を祝福し、大いに盛り上がった。
その後、全員でサンテイアゴからリスボンに向かい、ベレンの塔、大航海のモニュメント、ジェロニモ修道院、コメルシオ広場、サン・ジョルジェ城を見学し、夜はポルトガルの憂愁あふれるファドを楽しんだ。また郊外のケイレス宮殿、シントラのペ―ニャ宮殿、ロカ岬、カシュカイス等を見学した、その後、マドリードでは、プラド美術館、レイナ・ソフィア美術館、王宮、マヨール広場、プエルタ・デル・ソルを見学した。そして、8月30日にマドリード空港を出発し、31日に関西国際空港に無事到着した。