メキシコには、1974年から77年まで駐在した。以下はその時の話である。今は、いろいろな面で変化していると思われるので、当時の話として理解していただきたい。

 

「メキシコで道を聞く」

 

スペインやラテンアメリカで共通することであるが、ここメキシコでも人に道を聞く時は、3人の人に聞くことをお勧めする。何故なら、道を知らなくても親切に教えてくれるからである。3人の内2人が同じ方向を示せばやや安心である。メキシコ人は、見知らぬ外国人がせっかく自分に尋ねてくれたのに知らないと答えれば、さぞかし相手はがっかりするだろうと考えるのである。すべて善意から出る発想である。目的地までは遠いかどうかと聞く場合も同様である。かなり遠い場合でも、「もうちょっとだよ」と答える。本当のことを言えば、疲れているドライバーにさらに負担をかけることになると考えるからである。当時、私は2冊の本を熟読していた。1つは、スペイン人作家のFernando Diaz-Plajaの「El Español y los Siete Pecados Capitales」(スペイン人と7つの大罪)で、もう1つは、メキシコ人作家のMarco Almazánによる「Rediezcubrimiento de Mexíco」(メキシコの10の再発見)という本であった。両方ともスペイン人やメキシコ人の国民性について面白可笑しく書かれたものである。本を読み、実際に経験してみるといろいろなことがわかってきた。

 

「メキシコ人は宵っ張りか?」

 

メキシコ人は、宵っ張りだと良く言われる。いつも遅くまで酔っぱらって騒いでいるというイメージである。西部劇にあるメキシコの無法地帯もそういったイメージである。メキシコ駐在時代に、本当にそうなのかを調べてみることにした。私の住んでいた地域は、大学都市の近くでColonia Guadalupe Innと呼ばれ、私のアパートは、中流の上のクラスが住んでいた。駐車場は、1世帯当たり2台分あり、1台しか持っていない住人は、私を含め数世帯であった。アパートの窓から住人全員の駐車場が見えるので、月曜日から日曜日まで、夜の9時時点でどのくらいの車が車庫に戻っているかチェックした。その結果、判明したことは、月曜日から木曜日までは、ほとんどの車が戻っていたのである。金曜日と土曜日については、1~2割の車が戻っていなかった。要はほとんどすべてのアパート住人が静かな市民生活を営んでいるのである。メキシコ人は「メリハリのある宵っ張り」と言った方がいいのかもしれない。それ以降、人の言うことはほどほどに聞き、自分で確認したことのみを信用することにした。「人に影響されるな」が私のモットーになった。

 

「プールサイドでⅠ週間過ごすには」

 

メキシコシテイは海抜2200メートルの高地にあるため。3カ月に1回高地手当というのがあり、確か3泊4日くらいの休暇が認められていた。行先は海抜0メートルで、空気の濃い保養地アカプルコである。1970年代半ばのアカプルコは、まだカリブ海のカンクンも開発途上であったため、全盛期であり、250室の内プールが150あるラス・ブリサス・ホテルや大きなプールが11あり、ゴルフ場もあるアカプルコ・プリンセス・ホテル等々5つ星のホテルがたくさんあった。私の家族も中心部のホテルや空港近くのホテル等に宿泊した。最初にアカプルコ訪問した時は、物珍しさに中心部に出かけたり、有名な崖からの飛び込みショウなどを見学し、あちこち回った。よく考えてみると、アカプルコには休養にきているのであって、あちこち回るためではない。そこで、2度目からは、プール・サイドまたはビーチに1日中じっとしていることにした。やってみると、これが大変で、日本人の常としてなかなかじっとしていられない。周りのメキシコ人や外国人はプールサイドで何もしないで寝そべっていたり、本を読んだりしている。たぶん、これは訓練の問題であろうと考え、駐在中に、Ⅰ週間はじっとしていられるように歯を食いしばって頑張ってみた。訓練の甲斐もあって、Ⅰ週間くらいなら、本さえあれば、じっとしていられるようになった。訓練は大切である。

「メキシコの警察官の話」

 

今は、かなり変わっていると思うが、私のメキシコ駐在時代(1974年~77年)におけるメキシコの警察官は常に駐在員の話題になる対象であった。mordidaと呼ばれる小額の賄賂金に関わるものである。信号無視、スピード違反、酔っぱらい運転等の取り締まりに従事する警察官の中には、真面目に業務を遂行するものも少なくないが、中には、鵜の目鷹の目で捕まえる対象を探し、小額のmordidaをせしめようとするものも多かった。当時の警察官は、最低賃金を少し上回るくらいの給与であり、子だくさんの家庭を維持するにはとても大変である。中には、マチスモの国によく見られるが、外に愛人や隠し子を持ったりする警察官もいる。mordidaは、彼らの観点から見ると必要悪なのである。もちろん、受け取った金額は全額自分のポケットに入るわけではなく、上司に貢がなくてはならない。当時の現地の新聞によると、最初は、街角に立ち、交通違反を取り締まることになるが、そこで成績がいいと、バイクを与えられる。一度、バイクに乗れると収入が俄然増える。さらに上司の覚えがめでたいとパトカーによる取り締まりを任せられる。ここまで出世すると収入が飛躍的に伸び、少しは裕福になる。それでも真面目な警察官は、上納金のノルマが達成できず、バイクやパトカーを借り、休日出勤することもあるという。

私も、恥ずかしながら、メキシコでは、10回くらい警察官につかまった。最初の5回は、mordidaを払うことを余儀なくされた。ほとんどの場合、黄信号の時に、道路を渡り、渡り終わった時には赤信号になっていたというものであった。しかし、一度決定的に私が間違ったケースがあった。は、夕食に呼ばれ、帰宅途上の時で、スピード違反、飲酒運転、ナンバープレートの期限切れ(当時メキシコでは、正式のナンバープレートができるまで、仮りのナンバー・プレートをつける。期限が切れると再申請することになる。)という3つの罪でパトカーに捕まったことがあった。メキシコでは、当時、深夜に走行している車の運転手のかなりの部分が飲酒運転をしていたと言われていた。警察官は、「72時間の拘束及び1万円くらいの罰金です。どうしますか?」と言ってくる。私は、「どうすればいいでしょうか?」と小さくなって尋ねる。警察官は、何も言わず肩をすくめる。そこで、こちらは、罰金の半分くらい(当時の相場)の5千円相当のペソを渡すと、妥当な額(そうでないと、受け取らない)と見えて許してくれた。握手して別れたが、「十分に気をつけて帰宅するように」と丁寧な対応であった。捕まった5回の理由を分析してみると、ほとんどが黄色の信号の時に道路を渡り、赤信号になっていることが最大の原因であった。そこで、黄信号では決して渡らないようにした。残りの5回は、大いに注意していたが、mordidaを受け取る機会を常に探し求めている警察官は、いろいろイチャモンをつけてくる。一度、警察署(Delegación)に行かざるを得なくなった。こちらに落ち度は無かったので行くことにした。警察官は、内心しまったと思ったに違いない。変な外人に時間を取られると自分の収入が減るからである。警察署長には、青の時に渡り、黄色になり。渡り終えた時に、赤信号になったと主張し、これは、不当であると主張したところ、うるさい奴と思われたのか、無罪放免となった。残りの4回は、現場の警察官に対して、自分の正当性を説明し、許してもらった。

 

「有力者案内事業の成果」

 

ジェトロ本部勤務の間に、有力者案内事業というプログラムがあった。海外事務所から紹介のあった有力者を東京でお世話するというものである。一度メキシコの農牧省の役人2人をアテンドする機会があった。メキシコの農牧品を売り込むために日本市場を調査するための訪日であった。1人は、メルカード氏でもう一人は、モリ―ナ氏であった。メキシコ赴任直後に、コンタクトすると早速昼食に招待したいという。繁華街のソナ・ローサの有名なレストランであるチャレ・スイソで一緒に食事を共にし、日本訪問時の話を楽しく語り合った。その時わかったことだが、メルカード氏はその後昇進し、農牧省の次官になっていた。両氏は、ジェトロ・メキシコの仕事も折に触れ相談に乗ってくれた。海外で要人と良好な関係を築くことはそれほど容易ではないが、外国人と仲良くなるベストの方法は、日本で親切に応対することであることを理解した。