「チリ製品対日輸出奮戦記―ボトル・ワインとサーモン」
チリ産品の対日輸出への支援は、ジェトロ・サンテイアゴ事務所の重要な課題であった。課題達成のために、チリの輸出可能品目の調査、情報提供、広報等を熱心に行った。とりわけジェトロの情報紙である「通商弘報」には、4年間で65本の商品関係記事を掲載した。ここでは、ボトル・ワインとサーモンの輸出促進にまつわる話を紹介する。
- ボトル・ワインの輸出
チリは3Wの国と言われる。Wine, Weather, WomenのWをとったものである。ワイン造りは相当歴史があり、16世紀のスペイン人の征服時より始められている。日本のワイン会社や商社はチリのバルクワインを輸入し、日本のワインとミックスして日本の消費者には「日本製」として売っていた。したがって、チリ・ワインのアイデンテイテイが存在しなかったことになる。それゆえチリのワイナリーは、ボトル・ワインの対日輸出を強く望んでいた。しかし、チリ・ワインの知名度はほぼ無きに等しかった。そこで、通商弘報にチリのワイン事情に関する情報を多数執筆するとともに、チリのワイン業者のために日本のワイン市場セミナーを開くことにした。最初は、86年2月にワイン専門誌の「ビノテーク」の編集長の有坂芙美子女史を、86年6月には、ソムリエ日本一の田崎真也氏(後にソムリエ世界一になった)を招へいし、チリ貿易振興局とチリ・ワイン輸出業者協会の協力を得て、「日本のワイン市場セミナー」を開催した。有坂女史は、自身の媒体を使ってチリワインを広く広報してくれた。田崎氏には、チリの輸出業者に対するセミナ-の講師を務めていただいた他に、日本大使館で商社のトップを対象とする意見交換会を開催した。両氏はブエノスアイレス事務所の事業のためにアルゼンチンを訪問したのだが、本部に無理にお願いし、チリにも来てもらった。
チリのボトル・ワインは、85年にはわずか2,259ケースに過ぎなかったが、86年、9,384ケース、87年、11,212ケースと伸びた。その背景には。日本ワイン販売(株)の渡辺正司社長、チリの輸出業者ベルナルド・ベベル氏、チリの有力ワインメーカーであるサンペドロ社のダグラス・ムーライ氏の努力によるところが大きい。渡辺氏は元々、木材を取り扱っていたが、チリが気に入り、ボトルワインを輸入するようになった。通常の方法では、なかなか売れないと考え、チリワインを神社のみやげとして販売することとし、「成田詣」、「イナリワイン」のラベルをつくった。また、チリの女性をワイン・プロモーターとして招き、デパート、展示会、酒販売店で試飲会などを行った。
日本でもっと大々的にチリ・ワインのイメージを高めることができないかと考え、日本のテレビ局の協力を得る方法を思いついた。毎年チリぶどうの収穫祭に日本のテレビ局を招へいするというアイデアである。早速、サンパウロに駐在しているNHKと朝日TVにアプローチしたところ、受けるということになった。ジェトロは予算が無いので、チリ貿易振興局にもって行ったところ、同様に予算が無いと言う。そこで、チリ・ワイン輸出業者協会にコンタクトしたところ、業界の1位と2位のコンチャ・イ・トロ社とサンペドロ社が負担するということになった。後は、テレビ・チームの到着だけとなったが、運悪く、パナマで鉄の男と呼ばれた独裁者のマヌエル・ノリエガ将軍が失脚するというハプニングが起こった。彼らは、特派員なのでパナマに飛ばねばならなかった。こうして、幻のワイン取材は終わった。世界の政治の動きが、私の小さいプロジェクトに影響を与えるとは夢にも思わなかった。
今や、チリは、日本のワイン輸入では堂々と3位を占める国となった。チリ貿易振興局(プロチレ)の熱心な活動によるものだが、その成功の裏には、ジェトロの小さな努力の蓄積があった。
2)チリ・サーモンの対日輸出
鮭の対日輸出は、1987年にはわずか28メトリック・トンにすぎなかったが、88年には、一気に1,091トン、89年には4,740トンと急増した。
ジェトロの農水産部は、88年11月に、国際水産シンポジウムを開催した。チリからも鮭と珍味の専門家を1名ずつ招へいしてもらうことになった。鮭マス輸出業者連盟会長のアルフレド・バレンスエラ氏と輸出商社のCISANDINA社のフアン・ロイテル氏(筑波大学の元研究員でもあった)である。両氏とも申し分のない有能なビジネスマンで、シンポジウムでは素晴らしいプレゼンテーションをしてくれた。バレンスエラ会長は、日本市場の大きさに感銘を受けたようであった。日本企業もニチロが従来よりサケの養殖に従事していたが、88年12月に日本水産がチリ最大のサケ養殖企業であるサルモネス・アンタルテイカ社を買収した。連盟内でも日本市場についての重要性が認識され、1989年5月にバレンスエラ会長を団長とする5人のミッションが訪日した。最初、農水産部は受け入れを渋ったが、何とか説得し、受け入れてもらった。ミッションは、満足すべき感触を得て帰国した。これが、鮭の対日輸出の急増の直接のきっかけとなったのである。私も通商弘報や農水産ウイークリーに鮭関連記事を88年には3回、89年には4回執筆した。とりわけミッション来日時に合わせて記事を掲載してもらった。
チリの鮭・ますの対日輸出は、93年には、32,182トンになり、2010年には、144,013トンまでになっている。
2012年にダイヤモンド社から「チリをサケ大国にした日本人たち」という著作が発行された。国際協力機構研究所所長の細野昭雄氏の著作であるが、その中で次のような文章が入っている。「日本市場の開拓という点でJETROも重要な役割を果たした。チリで当時、その任にあたったのは、チリJETRO事務所長の桜井悌司だった。1988年は、チリ財団がサルモネス・アンタルテイカ社を売却した年であり、チリのサケ産業が確立し、発展をはじめたときだが、その年末、JETROは、チリ・サケマス生産者協会の会長アルフレド・バレンスエラと水産物輸出業者のフアン・ロイテルの二人を日本に招いた。バレンスエラ氏の訪日で、日本市場の大きさに驚き、良く1989年には自らが団長となってチリ養殖業者のミッションを組織し、訪日した、そのときもJETROが彼らを受け入れた」