チリのサンテイアゴには、1984年12月から89年6月まで、4年半という長期にわたり駐在であった。この連載は、その当時の思い出である。

 

「緊急事態令の経験」

 

チリのサンテイアゴに着任したのは、1984年12月25日であった。当時、ピノチェット政権によって緊急事態令(Estado de Emergencia)の最中であった。到着時に何か問題があることも想定し、青木ジェトロ駐在員の他に、旧知の日本大使館の三好一等書記官が空港まで出迎えてくれることになった。空港は軍隊によって厳重に警戒されていた。自動車は内部の明かりをつけ、車内が見えるようにし、時速も20キロと決められていた。それでも、ホテルまで3度ばかり検問され、事情を説明することになった。軍隊は当然ながら自動小銃を抱えていたので、子供たちも大いに不安がったものだった。到着後も市内のあちこちに軍や警察が配備されていた。それでも一部の学生は、チリ大学のある市内の中心部でデモを行っていた。私も一度デモを見に出かけたが、軍は学生を追い払うために青い水を放水車が撒き散らしていた。私もあやうくかけられそうになった。軍は青色の水をかけられた学生や一般市民をデモに参加していたという容疑で逮捕するのである。それとは別に、一度催涙ガスを経験したことがあった。公用車を運転し、市内に入ったところ、小さな硝煙が上がっていた。それが何であったかわからなかったので、そのまま通り過ぎたところ、急に大粒の涙が出てきた。催涙ガスだと分かったので、すぐに車を止め、涙が止まるまで、じっとしていた。意に反して、催涙ガスの威力を実感することができた。

 

「キャンペーン-チリはチリを助ける」

 

チリは日本と同様、地震や洪水等々自然災害が多い。チリ人はボランテイア精神に満ち満ちた国民である。全ての消防士がボランテイアであるという事実だけでもそのことが理解できよう。サンテイアゴの消防署を取材すると、消防ボランテイアに登録したボランテイアは順番で宿直しており、宿直外のボランテイアは、連絡があれば、すぐに現場に駆け付けるというシステムになっている。消防ボランテイアから、すでに2人の大統領が出ているとのことであった。地震や洪水が起こると、「チリはチリを助ける」というキャンペーンがあっと言う間に組織される。スーパーでは、買い物客が腐らない食品を購入し、所定のところに置いておくと、トラック輸送業者がボランテイア活動の一環として、必要とされる人々のところに届けるようになっている。年末ともなれば、テレトンというテレビとマラソンを掛け合わせた日本の24時間テレビのような番組があり、多額の義捐金を集める。私の家内もチリの駐在員夫人の会であるコピウエ会の飯野会長らと一緒にテレビ出演し、チリ人なら誰もが知っている司会者ドン・フランシスコのインタビューを受けた。私も、チリでボランテイア精神とは何かを学ばせていただいた。チリ人のボランテイア精神の高さには本当に驚かされた。

 

「恐怖のサンテイアゴ大地震について」

 

1985年3月5日(日)午後5時頃に、サンテイアゴでマグニチュード7.7、死者177名を出す大地震があった。その日、家族そろって、サンテイアゴ市のラス・コンデス地区にあるパルケ・アラウコ・ショッピングセンターのスーパーマーケットでほぼ買い物を終了し、レジに向かうところであった。「ドーン、ドーン」と2回大きな音とともに大きくグラグラと揺れだした。家族全員を1か所に集め、ゆっくり、スーパーの外に出て行った。スーパーの中では、水やワイン、ビール等のガラス瓶が陳列棚から落下し、あたりは水浸しの状況であった。外に出たところで少し落ち着き、周りの人々の様子をうかがった。私の意識の中には、チリは発展途上国で貧しい国である。したがって、このような時には、略奪行為が行われるに違いないと考えたのである。しかし、この考えは、全くの間違いで、誰一人として略奪行為に走っている様子は無かった。地震の規模が大きすぎて、自分の身を守ることで精いっぱいであったとかラス・コンデス地区は比較的上層部の人が住んでいるので起こらなかったのかとも考えてみたのだが、とにかく何も起こらなかった。次に私が考えたことは、このような場合、ただちに水やトイレット・ペーパー等が無くなるであろうということであった。早速、スーパーにそれら物資を買いに行ったが、店頭に所狭しと並べられていた。日本的に考えたことに少し恥ずかしい気がした。翌日、サンテイアゴ中心部の中央広場(Plaza De Armas)にあるジェトロ事務所に行ってみると、カテドラル、市庁舎、郵便局の瓦礫がすべて片づけられていたのである。当然のように、「チリはチリを助ける」という国民キャンペーンが組織された。地震の当日、本部から電話があり、事務所は大丈夫ですかと無神経にも聞いてきた。私や家族のみを守るのに精いっぱいなのに、とても事務所まで手が回らないと回答した。同時に、当地は大変なので、ジェトロの有志を募って寄付金を集めて欲しいとお願いしたところ、当時の総務課長や企画課長が快く音頭をとっていただき、ジェトロ職員に募金を呼びかけた。その結果、180名の応募があり、18万円が集まった。それに私の2万円を加え、20万円相当分の小切手を当時のアランギス文部大臣に寄贈した。ジェトロ職員のボランテイア精神の高さには感激した。これら一連の出来事の結果、私のチリ人に対する敬意は格段に高まった。

 

「セミナーでは、できるだけ最前列に座る」

 

私がサンテイアゴに駐在した時代は、日本が大切にされた時期であった。なぜなら、中曽根総理(当時)が発展途上国に対し、200億ドルのODA資金環流計画を打ち出したため、発展途上国のサポーターとしての日本が大きくクローズアップされたからである。重要なセミナーや会議に出席すると、いつも最前列の席に案内された。ほぼ必ずと言ってよいほど、現場にはテレビ局が取材に来ており、テレビ・クルーは常に最前列にいる参加者を撮影し、夜のニュースで放映するのである。1度や2度ではダメだが、5度から10度くらいテレビに映されると、チリ人の知人や日本企業の駐在員、近所の人々が、「昨日のニュースに出ていましたね」と挨拶してくれたり、電話をくれたりするのである。要は、テレビに頻繁に写ると、VIPだと勘違いしてくれるのである。この勘違いが、私の仕事に大いに役立った。ジェトロのステータスは上昇するし、私の知名度も上がった。その結果、仕事がし易くなったのである。私は、現在、学生にも出来るだけ前に座るように勧めている。

 

「チリ製品輸出業者協会の役員に就任」

 

チリのサンテイアゴ駐在時代はできるだけチリ産品の対日輸出、海外輸出に貢献したいと考えた。チリと言えば、鉱物資源や農林水産資源等資源の輸出がほとんどで、製品となるとまだまだであった。チリの悲願は何とかして付加価値の高い製品の輸出の振興を図ることであった。チリの輸出業者協会と言えば、ブドウを中心とする農産品の協会である。しかし、1984年にチリの工業製品の輸出を促進するために「チリ製品輸出業者協会」(ASEXMA)が設立された。赴任直後に、協会の幹部であるグスターボ・ランドール氏とロベルト・ファントウーシ氏がジェトロ・事務所を訪問してくれた。何度か、日本の輸出振興制度や輸出協会の役割、商社の活動等について意見交換したところ、協会の役員になって欲しいと頼まれた。日本では、外国人に協会や組合の役員の就任を依頼することなど考えられないことなので大いに戸惑ったが、引き受けることにした。86年6月末の第4回総会で、「アドバイザー・デイレクタ―」として承認された。当初、お飾り的なものと考えたが、全くそうではなくて、リカルド・ガルシア外務大臣やギリェルモ・ルネケ外務省対外経済総局長等チリ政府との会合や重要な会議等すべてに出席することになった。チリ人の寛容さには驚いたものであった。